日本人はどうして自分の国を悪く言うようになったのか?

「パル判決書」の真実 著者 渡部昇一 PHP研究所 P224~230 より

言論の自由が制限された占領下の日本にあって、東京裁判の法廷内は、唯一、言論の自由が保障された場だった。清瀬一郎弁護人が最初から管轄権論争を挑み、裁判長が答えられない事態が出現したのは、そのあらわれである。 だが、それをもって東京裁判に正当性があったというわけにはいかない。

国際法に基づかず、判事も検事も日本と戦った国から出されるようでは、公正な裁判と程遠い。もし、判事が全員、ポルトガル、スイスといった中立国から選ばれ、国際法に則って裁判が行われたなら、有罪判決はなかったと私は考える。

東京裁判が法律的に無効であることに気づいて、国際法の立場から述べた判事はパルだけだった。その法律論の意義は大きいが、それもさることながら、日本人にとって『パル判決書』の意義は、昭和3年以降の歴史を検証してくれた点にある。昭和史として『パル判決書』を読むことの重要性を、私は繰り返し強調しておきたい。

戦後、昭和史に対する歴史観は「東京裁判史観」と「パル史観」の二つしかない。そして、日本人が学ぶべきは「パル史観」なのである。

参考
自虐史観(じぎゃくしかん)とは?
太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の社会や歴史学界、教育界における
特定の歴史観を批判・否定的に評価する言葉である。
日本の歴史の負の部分をことさらに強調する一方で、正の部分を
過小評価し日本を貶める歴史観のことを指す。ほぼ同種の造語として、
日本悪玉史観、東京裁判史観がある。

わかりやすくいえば、自分の国の良い部分は言わないで、悪い部分ばかり
並べ立てる歴史観である。

これに関して「パル判事は平和主義者だった。『パル判決書』で日本の侵略戦争を弁護してはならない」と批判する人がいる。おそらくは文明国の裁判に詳しくないのであろう。

カントは『啓蒙とは何か』という短い論文のなかで、宗教団体はいかなる宗教団体であってもプライベートな団体であるといった。

裁判は国家レベルのパブリックなものであり、そこにプライベートなものは一切入れない。つまり、裁判官の判決は自分が信じる宗教にさえ影響されてはならないのである。これが当たり前のこととして確立されているのが文明国である。パルはそういう文明のなかに身を置く法律家だった。

もっとも、「日本人の宗教は迷信のようなものだ」と最高裁判所の判事が平気でいったりするように、日本の裁判官には個人的な信条を判決に持ち込む輩が少なからずいる。これは日本の裁判官の悪いところだが、この手の裁判官しか知らないのならばパルの信条を非文明的に解釈した人に同情すべきところはある。しかし、パルはそのような「日本的基準」の人ではなく、「国際的基準」を遵守する法律家である。

日本が独立を回復したあとに招待されて来日したとき、日本のある人から「日本のためによく弁護していただいてありがたかった」といわれたパルは、「私は日本の弁護をしたのではありません。国際法を守ったのです」という趣旨のことを語ったが、パルはあくまでパブリックに考えたのであり、平和主義を志向していても、当然ながらその信条は裁判官としての判断とは別である。したがって、『パル判決書』においてパルの私的信念を持ち出すのは雑音以外の何ものでもない。

法律的にも歴史的にも反駁しがたい『パル判決書』であるが、「パル史観」は日本で普及せず、「東京裁判史観」が幅を利かせている。それは戦後のジャーナリズムおよび学界で「東京裁判史観」が支持されたからだと思う。 では、なぜ、ジャーナリズムや学界は「東京裁判史観」を支持してきたのか。

事の始まりは、各界合わせて20万人以上が対象となった昭和21年の公職追放令だったと私は捉えている。

参考
公職追放とは?
重要な公職から特定の者を排除する処置。昭和21年(1946)1月に出された
GHQの覚書に基づき、軍国主義者・国家主義者を国会議員・報道機関・
団体役職員などの公職から追放し、政治的活動も禁じた。
同27年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い、自然消滅。

このとき、経済界では松下幸之助、政界では石橋湛山、鳩山一郎などが追放されたが、いずれも復帰して活躍したのだから、公職追放がナンセンスな性質をもっていたことがわかる。ただ、政治、経済の分野では後に復帰したケースが少なくなかったが、それに比べて、学界とジャーナリズムの分野は追放された人がほとんど復帰しなかった。つまり、公職追放のおかげでポストを得た人間が居座り続けたのである。

公職追放によってどのような人間が大学に入ってきたかを考える際、誰が公職追放者の名簿をつくったかに注目したい。いうまでもなくケーディスを中心とするGHQの民政局が主導したが、GHQにいるアメリカ人のなかで、日本を詳しく知っている人間はいなかった。

参考
チャールズ・ルイス・ケーディス
(Charles Louis Kades、1906年3月12日 - 1996年6月18日)は、アメリカ
合衆国の軍人・弁護士。ケージスとも呼ばれる。GHQ民政局課長・次長を
歴任。日本国憲法制定に当たっては、GHQ草案作成の中心的役割を担い、
戦後日本の方向性に大きな影響を与えた。

 となると、ケーディスたちにアドバイスした人間がいなければ追放者リストはつくれないし、アドバイザーが実質的な名簿作成者だと考えるべきであろう。そのアドバイザーの中心となったのはハーバート・ノーマンだと私は見ている。

参考
エドガートン・ハーバート・ノーマン
(Egerton Herbert Norman, 1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダ
の外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。ソ連のスパイ。
スパイの疑いをかけられ自殺した。

 ハーバート・ノーマンは、日本に来ていた牧師の子に生まれ、日本で育ったので、日本語は日本人同様にできた。頭が良く、ケンブリッジ大学に留学する。そこで共産党に入党し、左翼で日本から逃げ出した都留重人と親しく交際した。

参考
都留 重人
(つる しげと、1912年(明治45年)3月6日 - 2006年(平成18年)2月5日)
は日本の経済学者。一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、
雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)創刊。初代一橋大学経済研究所長、
第6代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、
国際経済学連合会長(日本人初)、日本学士院会員等を歴任した。
日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者。

ハーバード卒業後、カナダの外交官になったが、日本のことを詳しく知るアメリカ人がいないマッカーサー司令官は、日本近代史で博士論文を書き、海外の評価も得ていたハーバート・ノーマンに頼み込み、それを受けて彼は来日した。 左翼の集まりみたいだった民政局にとって、ハーバート・ノーマンはうってつけの人物だったようだ。

そのハーバート・ノーマンが、左翼仲間の都留重人、羽仁五郎━━ハーバート・ノーマンが日本にいるとき、日本近代史の家庭教師を務めたのが札付きの左翼である羽仁五郎だった━━たちを中心として話し合い公職追放者の人選をしたとしか、私には考えられない。

参考
羽仁 五郎
(はに ごろう、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)
は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。
日本学術会議議員。

ちなみに、GHQは戦前の本を7000点ぐらい指定して廃棄処分したが、この焚書候補もハーバート・ノーマンとその仲間が関与しなければ選べるはずがないと思う。西尾幹二氏の調査によれば、この焚書には、牧野英一氏(東大法学部教授・文化勲章受章者)や、東大文学部の金子武蔵氏や尾高邦雄氏が関与していた。東大にこの仕事をやらせたのもノーマンとその友人たちではなかったか、と私は憶測している。

公職追放令で空いた有力大学の主要なポストを、ハーバート・ノーマン、羽仁五郎、都留重人あたりが相談して埋めれば、戦前、反日的な行為によって帝国大学から追われた人が入ってくるのは自然の成り行きである。

本書は滝川幸辰氏と大内兵衛氏を第8章で取り上げたが、滝川は京都大学で無政府主義の刑法を講義し、それを注意されたら突っ張って辞職した人だ。その滝川が公職追放後に凱旋ショーのように京都大学に戻り、法学部長、総長を歴任した。しかも、滝川と一緒に行動した人たちも帰ってきて、立命館大学総長にその一派の人間が就任してもいる。

参考
滝川 幸辰
(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)
11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。
京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。
正三位勲一等瑞宝章。

無政府主義とは?
国家,社会,宗教など一切の権威,権力を否定し,完全な自由社会の
樹立を理想とする思想。

それから、人民戦線運動で東大を追われた大内兵衛は戦後、内閣の経済的な諮問団体の座長を務め、後に法政大学の学長にもなった。

参考
大内 兵衛
(おおうち ひょうえ、1888年8月29日 - 1980年5月1日)は、大正・昭和期
の日本のマルクス経済学者。専攻は財政学。日本学士院会員。
元東京大学教授、法政大学総長。

日本で最も有力な大学である東京大学は南原繁氏が総長だったが、南原を左翼とする証拠はない。ただし、サンフランシスコ条約に反対したことはその姿勢を物語っている。

サンフランシスコ条約反対はソ連のスターリンの希望だ。それに応じたのが日本の社会党であり、日本の共産党であり、岩波グループといわれた学者たち━━その代表的存在が南原━━だ。

吉田茂は南原を「曲学阿世の徒」と呼んだが、少なくともあの時点で、スターリンの意図に従った人ということはできる。

参考
曲学阿世(きょくがくあせい)とは?
学問の真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間に気に入られるような
説を唱えること。真理を曲げて、世間や時勢に迎合する言動をすること。
「曲学」は真理を曲げた正道によらない学問。「阿世」は世におもねる意。
「阿」はへつらいおもねる意。

また、南原の次に東大総長となった矢内原忠雄氏はおそらくキリスト教徒としては立派な方だと思う。しかし、東大助教授の頃に「神よ、日本を滅ぼしたまえ」というような趣旨の文章を書いた。帝国大学の先生が「日本を滅ぼしたまえ」では困る。そのために大学を辞めたが、敗戦後に東大に復帰して総長にまでなった。

戦前ならば手が後ろに回るような人たちにとって、戦前の日本は憎しみの対象である。そういう人たちが有力大学の主要ポストを占め、雨後の筍のごとくできた新制大学の先生には彼らの弟子たちが送り込まれた。

大学を知っている人ならわかることだが、先生と意見が合わなければポストをもらえないから、大学教師の職を得たのは先生と同じ考えをもっている者ばかりになる。したがって、進行性癌のごとく戦後の日本の学界はたちまち赤くなってしまったのである。

このようにして反日的な人間が大学を支配する体制ができ、そこを基点として「東京裁判史観」は社会に普及していったと思う。まず、大学の学生でいちばん素直な人たちがだいたい学校の教師になるものだが、これが日教組に入って子供たちに教えた。また、有力大学の秀才たちはNHKや朝日新聞といった一流のマスコミ企業に就職する者もいて、ジャーナリズムというルートも出てくる。こういう流れのなかで「東京裁判史観」は不動なものになっていったのではないか。

ソ連が解体した直後ぐらいだったが、私立大学の学長たちを集めたコンベンションが開かれ、私はパネリストを務めた。そのときに「大学にはマルクスを信じた学者がいる。その人たちの首を切ることはできないだろうから、今後採用する教員はその系統の人を除いたらどうか」と発言したが、場がしらけ、司会役の元文部次官はその後は私に発言させなかった。これが示しているのは、今日でも大学では「東京裁判史観」の再生産が続いている実態である。

「東京裁判史観」の再生産を止めるには『パル判決書』を読むことが一番である。少なくともキャリア級の国家公務員は読んでおくべきだ。そこで、司法試験、外交官試験、中央官庁の試験科目に『パル判決書』を入れるのは一策だと思う。国家試験の科目になると、研究書も出れば教える人も出るし、やかましく「読め」といわなくても一気に普及するに違いない。