日本人はどうして自分の国を悪く言うようになったのか?

「パル判決書」の真実 著者 渡部昇一 PHP研究所 P224~230 より

言論の自由が制限された占領下の日本にあって、東京裁判の法廷内は、唯一、言論の自由が保障された場だった。清瀬一郎弁護人が最初から管轄権論争を挑み、裁判長が答えられない事態が出現したのは、そのあらわれである。 だが、それをもって東京裁判に正当性があったというわけにはいかない。

国際法に基づかず、判事も検事も日本と戦った国から出されるようでは、公正な裁判と程遠い。もし、判事が全員、ポルトガル、スイスといった中立国から選ばれ、国際法に則って裁判が行われたなら、有罪判決はなかったと私は考える。

東京裁判が法律的に無効であることに気づいて、国際法の立場から述べた判事はパルだけだった。その法律論の意義は大きいが、それもさることながら、日本人にとって『パル判決書』の意義は、昭和3年以降の歴史を検証してくれた点にある。昭和史として『パル判決書』を読むことの重要性を、私は繰り返し強調しておきたい。

戦後、昭和史に対する歴史観は「東京裁判史観」と「パル史観」の二つしかない。そして、日本人が学ぶべきは「パル史観」なのである。

参考
自虐史観(じぎゃくしかん)とは?
太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の社会や歴史学界、教育界における
特定の歴史観を批判・否定的に評価する言葉である。
日本の歴史の負の部分をことさらに強調する一方で、正の部分を
過小評価し日本を貶める歴史観のことを指す。ほぼ同種の造語として、
日本悪玉史観、東京裁判史観がある。

わかりやすくいえば、自分の国の良い部分は言わないで、悪い部分ばかり
並べ立てる歴史観である。

これに関して「パル判事は平和主義者だった。『パル判決書』で日本の侵略戦争を弁護してはならない」と批判する人がいる。おそらくは文明国の裁判に詳しくないのであろう。

カントは『啓蒙とは何か』という短い論文のなかで、宗教団体はいかなる宗教団体であってもプライベートな団体であるといった。

裁判は国家レベルのパブリックなものであり、そこにプライベートなものは一切入れない。つまり、裁判官の判決は自分が信じる宗教にさえ影響されてはならないのである。これが当たり前のこととして確立されているのが文明国である。パルはそういう文明のなかに身を置く法律家だった。

もっとも、「日本人の宗教は迷信のようなものだ」と最高裁判所の判事が平気でいったりするように、日本の裁判官には個人的な信条を判決に持ち込む輩が少なからずいる。これは日本の裁判官の悪いところだが、この手の裁判官しか知らないのならばパルの信条を非文明的に解釈した人に同情すべきところはある。しかし、パルはそのような「日本的基準」の人ではなく、「国際的基準」を遵守する法律家である。

日本が独立を回復したあとに招待されて来日したとき、日本のある人から「日本のためによく弁護していただいてありがたかった」といわれたパルは、「私は日本の弁護をしたのではありません。国際法を守ったのです」という趣旨のことを語ったが、パルはあくまでパブリックに考えたのであり、平和主義を志向していても、当然ながらその信条は裁判官としての判断とは別である。したがって、『パル判決書』においてパルの私的信念を持ち出すのは雑音以外の何ものでもない。

法律的にも歴史的にも反駁しがたい『パル判決書』であるが、「パル史観」は日本で普及せず、「東京裁判史観」が幅を利かせている。それは戦後のジャーナリズムおよび学界で「東京裁判史観」が支持されたからだと思う。 では、なぜ、ジャーナリズムや学界は「東京裁判史観」を支持してきたのか。

事の始まりは、各界合わせて20万人以上が対象となった昭和21年の公職追放令だったと私は捉えている。

参考
公職追放とは?
重要な公職から特定の者を排除する処置。昭和21年(1946)1月に出された
GHQの覚書に基づき、軍国主義者・国家主義者を国会議員・報道機関・
団体役職員などの公職から追放し、政治的活動も禁じた。
同27年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い、自然消滅。

このとき、経済界では松下幸之助、政界では石橋湛山、鳩山一郎などが追放されたが、いずれも復帰して活躍したのだから、公職追放がナンセンスな性質をもっていたことがわかる。ただ、政治、経済の分野では後に復帰したケースが少なくなかったが、それに比べて、学界とジャーナリズムの分野は追放された人がほとんど復帰しなかった。つまり、公職追放のおかげでポストを得た人間が居座り続けたのである。

公職追放によってどのような人間が大学に入ってきたかを考える際、誰が公職追放者の名簿をつくったかに注目したい。いうまでもなくケーディスを中心とするGHQの民政局が主導したが、GHQにいるアメリカ人のなかで、日本を詳しく知っている人間はいなかった。

参考
チャールズ・ルイス・ケーディス
(Charles Louis Kades、1906年3月12日 - 1996年6月18日)は、アメリカ
合衆国の軍人・弁護士。ケージスとも呼ばれる。GHQ民政局課長・次長を
歴任。日本国憲法制定に当たっては、GHQ草案作成の中心的役割を担い、
戦後日本の方向性に大きな影響を与えた。

 となると、ケーディスたちにアドバイスした人間がいなければ追放者リストはつくれないし、アドバイザーが実質的な名簿作成者だと考えるべきであろう。そのアドバイザーの中心となったのはハーバート・ノーマンだと私は見ている。

参考
エドガートン・ハーバート・ノーマン
(Egerton Herbert Norman, 1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダ
の外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。ソ連のスパイ。
スパイの疑いをかけられ自殺した。

 ハーバート・ノーマンは、日本に来ていた牧師の子に生まれ、日本で育ったので、日本語は日本人同様にできた。頭が良く、ケンブリッジ大学に留学する。そこで共産党に入党し、左翼で日本から逃げ出した都留重人と親しく交際した。

参考
都留 重人
(つる しげと、1912年(明治45年)3月6日 - 2006年(平成18年)2月5日)
は日本の経済学者。一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、
雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)創刊。初代一橋大学経済研究所長、
第6代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、
国際経済学連合会長(日本人初)、日本学士院会員等を歴任した。
日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者。

ハーバード卒業後、カナダの外交官になったが、日本のことを詳しく知るアメリカ人がいないマッカーサー司令官は、日本近代史で博士論文を書き、海外の評価も得ていたハーバート・ノーマンに頼み込み、それを受けて彼は来日した。 左翼の集まりみたいだった民政局にとって、ハーバート・ノーマンはうってつけの人物だったようだ。

そのハーバート・ノーマンが、左翼仲間の都留重人、羽仁五郎━━ハーバート・ノーマンが日本にいるとき、日本近代史の家庭教師を務めたのが札付きの左翼である羽仁五郎だった━━たちを中心として話し合い公職追放者の人選をしたとしか、私には考えられない。

参考
羽仁 五郎
(はに ごろう、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)
は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。
日本学術会議議員。

ちなみに、GHQは戦前の本を7000点ぐらい指定して廃棄処分したが、この焚書候補もハーバート・ノーマンとその仲間が関与しなければ選べるはずがないと思う。西尾幹二氏の調査によれば、この焚書には、牧野英一氏(東大法学部教授・文化勲章受章者)や、東大文学部の金子武蔵氏や尾高邦雄氏が関与していた。東大にこの仕事をやらせたのもノーマンとその友人たちではなかったか、と私は憶測している。

公職追放令で空いた有力大学の主要なポストを、ハーバート・ノーマン、羽仁五郎、都留重人あたりが相談して埋めれば、戦前、反日的な行為によって帝国大学から追われた人が入ってくるのは自然の成り行きである。

本書は滝川幸辰氏と大内兵衛氏を第8章で取り上げたが、滝川は京都大学で無政府主義の刑法を講義し、それを注意されたら突っ張って辞職した人だ。その滝川が公職追放後に凱旋ショーのように京都大学に戻り、法学部長、総長を歴任した。しかも、滝川と一緒に行動した人たちも帰ってきて、立命館大学総長にその一派の人間が就任してもいる。

参考
滝川 幸辰
(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)
11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。
京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。
正三位勲一等瑞宝章。

無政府主義とは?
国家,社会,宗教など一切の権威,権力を否定し,完全な自由社会の
樹立を理想とする思想。

それから、人民戦線運動で東大を追われた大内兵衛は戦後、内閣の経済的な諮問団体の座長を務め、後に法政大学の学長にもなった。

参考
大内 兵衛
(おおうち ひょうえ、1888年8月29日 - 1980年5月1日)は、大正・昭和期
の日本のマルクス経済学者。専攻は財政学。日本学士院会員。
元東京大学教授、法政大学総長。

日本で最も有力な大学である東京大学は南原繁氏が総長だったが、南原を左翼とする証拠はない。ただし、サンフランシスコ条約に反対したことはその姿勢を物語っている。

サンフランシスコ条約反対はソ連のスターリンの希望だ。それに応じたのが日本の社会党であり、日本の共産党であり、岩波グループといわれた学者たち━━その代表的存在が南原━━だ。

吉田茂は南原を「曲学阿世の徒」と呼んだが、少なくともあの時点で、スターリンの意図に従った人ということはできる。

参考
曲学阿世(きょくがくあせい)とは?
学問の真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間に気に入られるような
説を唱えること。真理を曲げて、世間や時勢に迎合する言動をすること。
「曲学」は真理を曲げた正道によらない学問。「阿世」は世におもねる意。
「阿」はへつらいおもねる意。

また、南原の次に東大総長となった矢内原忠雄氏はおそらくキリスト教徒としては立派な方だと思う。しかし、東大助教授の頃に「神よ、日本を滅ぼしたまえ」というような趣旨の文章を書いた。帝国大学の先生が「日本を滅ぼしたまえ」では困る。そのために大学を辞めたが、敗戦後に東大に復帰して総長にまでなった。

戦前ならば手が後ろに回るような人たちにとって、戦前の日本は憎しみの対象である。そういう人たちが有力大学の主要ポストを占め、雨後の筍のごとくできた新制大学の先生には彼らの弟子たちが送り込まれた。

大学を知っている人ならわかることだが、先生と意見が合わなければポストをもらえないから、大学教師の職を得たのは先生と同じ考えをもっている者ばかりになる。したがって、進行性癌のごとく戦後の日本の学界はたちまち赤くなってしまったのである。

このようにして反日的な人間が大学を支配する体制ができ、そこを基点として「東京裁判史観」は社会に普及していったと思う。まず、大学の学生でいちばん素直な人たちがだいたい学校の教師になるものだが、これが日教組に入って子供たちに教えた。また、有力大学の秀才たちはNHKや朝日新聞といった一流のマスコミ企業に就職する者もいて、ジャーナリズムというルートも出てくる。こういう流れのなかで「東京裁判史観」は不動なものになっていったのではないか。

ソ連が解体した直後ぐらいだったが、私立大学の学長たちを集めたコンベンションが開かれ、私はパネリストを務めた。そのときに「大学にはマルクスを信じた学者がいる。その人たちの首を切ることはできないだろうから、今後採用する教員はその系統の人を除いたらどうか」と発言したが、場がしらけ、司会役の元文部次官はその後は私に発言させなかった。これが示しているのは、今日でも大学では「東京裁判史観」の再生産が続いている実態である。

「東京裁判史観」の再生産を止めるには『パル判決書』を読むことが一番である。少なくともキャリア級の国家公務員は読んでおくべきだ。そこで、司法試験、外交官試験、中央官庁の試験科目に『パル判決書』を入れるのは一策だと思う。国家試験の科目になると、研究書も出れば教える人も出るし、やかましく「読め」といわなくても一気に普及するに違いない。 

南京大虐殺の嘘を暴く! Part 2

【上智大学名誉教授 渡部昇一先生の講演より】

私は南京大虐殺はないとは言えないけれど、あり得なかったと言うことを言い続けてきたわけです。 何故かと言いますと、私は南京が落ちたとき小学生でありまして、私のすぐ隣の家は石川さんといいましてね。 戦争始まると戦地に行ったんですけども、上等兵でお帰りになりました。

その先の先の家の長沢さんという家はね、軍曹でお帰りになったんです。 だから始まってから1年から1年半ぐらい行きますと、一度兵隊さんを帰したんですよ。 それで小学校でも同級生のお父さんなんか帰って来まして、けれど大虐殺なんてことは誰も言わないんですよね。

参考
大日本帝国陸軍の階級
大将 → 中将 → 少将 → 大佐→ 中佐 → 少佐 → 大尉 → 中尉 → 少尉 →
准尉 → 曹長 →軍曹 → 伍長→ 兵長 → 上等兵 → 一等兵 → 二等兵

私が小学校6年生ぐらいのときにですね、2年生上級生で高等小学校に行った男ですね。太田和夫といってましたが、その彼が遊び仲間を集めて、

「お前たち、もう加賀も赤城も沈んでいるぞ!」って言うんですよ。

びっくりしましてね。赤城、加賀なんていうのはですね、子供のときから日本の代表的な航空母艦として名前はよく知っていたわけです。それがね、まだ勝ち誇っている正月の始め頃にですね、みんなそうだって言うんです。

そんなバカなと思っていましたけども、これは戦後になってわかりましたけど、それはミッドウェー海戦の後だったんです。

参考
ミッドウェー海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日
にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍を
アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部
隊及び同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は主力空母4隻とその
搭載機約290機の全てを一挙に喪失する大損害を被り、アメリカ海軍もヨークタ
ウンを失った。

ところが私は山形県の鶴岡市のしかもはずれですからね、周囲には海軍関係の人は一人もいません。それから中央との関係ある人も、偉い人も一人もいません。にもかかわらず、日本軍の海軍がひた隠しに隠したミッドウェー海戦の敗戦は子供までサーと伝わってくるんですよ。

ところが何万人も南京あたりから帰ってきているわけです。一人もそんなこと言った人いないから、まあ、これはないだろうと思ってね。ちょうど私は家にありました本をですね取り出してきましてね。これはキングという雑誌です。

当時これは100万部売れてたとかいいますが、六百何十ページありますよ。これは昭和13年1月号ですから、南京が落ちてから2週間から3週間目に出た本です。たくさん書いてありそうでしょ。しかし、六百何ページのうちのですね。まあ、1割はないぐらいですね。戦争に関係あること自体が。

それから当時はこの昭和13年1月号の付録にこれが出ているんです。

「支那事変美談武勇談」。これは講談社が作ったんですよ。

だから戦争が始まってから間もなくの間に作ったんでしょうね。話が一杯ありますけど、みんな実名入りでね。兵隊さんの話が多いんです。だから武勇伝ですね。システマティック(組織的)な虐殺なんていうのは入りようがない話ばかりです。これが南京が陥落してから3週間後に出た本ですよ。雑誌ですよ。勝手なこと書ける自由な報道になって、戦争のことが1割ぐらいしかないんですよ。

それからこれはね、子供のための講談社の絵本です。戦前はですね、講談社の絵本っていうのは子供のための絶対的な本って言っていいんですがね。南京が落ちてから3週間目に出た子供のための絵本です。講談社の絵本は当時1月4冊ずつ出ました。雰囲気としてね、30万人殺しているような雰囲気なんてどこにもないんですよ。だから私は初めからそんなことおかしいと思っておったんです。

そう思って考えてみますとね、いろいろ思い起こしてみますとこんなことがありました。南京を攻めるときに日本が空襲するわけです。空襲するっていってもアメリカ軍みたいに何トンもの爆弾をバーンと落とすんじゃなくてですね。狙ってポツポツ落とすわけですが、それが軍事施設から狂って民間の家に落ちた。

支那軍はそんなことをね、いちいちね、当時の南京政府は国際連盟に訴えているんですよ。爆弾がずれて普通の家に落ちただけでも。

なのにですね、虐殺は問題にされてないんですよ。

それで外国人もいたわけです。安全地区なんかにいたわけですが、日本政府が公式なる外国からの抗議を受けたことは一度もないんです。

公式の抗議はありませんよ。

蒋介石からさえもないんですよ。

だから南京大虐殺があったという話をですね、東京裁判に最初に出てきたときに総司令官の松井大将までも、「俺はじめて聞いたよ。」というのは嘘じゃないと思います。当時の日本人は聞いたことがないんですよ。そんなこと。30万人は簡単に殺せる数じゃないですよ。

戦場ではいくら兵隊さんが殺されてもこれは虐殺とは言いません。

戦闘ですから。

それが戦後はごちゃ混ぜになっちゃって、戦闘で殺された相手ね、それから敵は督戦隊というのがありましてね、自分の味方の逃げてくる兵隊を撃つ人がいたんですよ。そんなのを殺したとか。みんなごちゃ混ぜに混ぜましてね、何万人とかいいましてね、それにしても無理なんですね。

参考
督戦隊(とくせんたい)とは、軍隊において、自軍部隊を後方より監視し、自軍
兵士が命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは降伏する様な行動
を採れば攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った部隊のことで
ある。兵士の士気を上げる為の手段であり、司令官が「死守」を命じると兵士
は文字通り死ぬまで戦うことになる。

当時南京は世界中が認めるように20万人でしたね。田中正明先生という人がいました。この人は松井大将の秘書の方で、私が諸君という雑誌か何かにね、今言ったようなことを書いたんですよ。そうしたらお電話いただきましてね。

本当に電話で泣き声で言われたんですね。

「今までそう言ってくれる人が本当にいなかったんだよ。私は松井大将の脇にいたんだ。」

というようなことをおっしゃいまして、その後お会いしてお話をお伺いいたしました。

そうしますと、やはり、あり得るはずがないんですよ。30万人という数は組織的に時間をかけないと絶対殺せないんですよ。

それで松井大将は南京を攻めるときにですね、我々は敵の都を落とすんだ、世界中が見ているからみんな注意しろと言って攻撃しています。

南京のすぐ近くには中山稜(南京を代表する観光名所で、紫金山という標高448mの山の山頂付近にある)という稜があります。そこは孫文なんか祭られております。そこに大砲あげれば大変打ちやすいんですけど、中山稜に大砲あげちゃいかんというような具合で、そこまで気を使って攻撃してるんですよ。

それからオープンシティを勧めていますね。街を戦場にしちゃいかんと、それは市民が巻き込まれるから、実際に北京も天津も全部オープンシティにしているんです。敵側は。だから一人も住民の被害はありません。

本当は蒋介石もオープンシティにするつもりだったんですが、唐生智という将軍がぜひ戦わせてくれというわけでオープンシティにしなかったんですよ。

オープンシティにしなかったら市民に被害があったとしても、それはオープンシティを受け取らなかった、しなかったほうの責任ですよ。

それで最後まで戦わなくて途中で逃げ出しちゃったんですね。というようなことで、オープンシティにしなかった。

オープンシティっていうのは非常に重要なんですよ。例えば、パリっていうのはね。ドイツ軍が占領したときオープンシティにしたからあまり傷つきませんでした。それから連合軍が攻め返した時にドイツの将軍はヒットラーの命令に反して、オープンシティにしました。ヒットラーはパリを焼けと言ったんですよね。しかしドイツの将軍はそんなことするもんじゃないと言って、オープンシティにして引き上げたんですよ。だからパリはそのままですよ。

オープンシティを最後までしなかった、例えばベルリンは市街戦になりますから徹底的にやられるんですよ。それはしょうがない。

参考
オープンシティ(無防備都市宣言)とは組織的降伏の一種。戦争もしくは紛争
において、都市に軍事力が存在していない開放地域(英語: Open City)で
あると宣言し、敵による軍事作戦時の損害を避ける目的で行われる。

それからもうひとつ考えてみますとね、当時の我々の子供の頃の戦争でね。1万人戦争で殺すなんて、想像の外にあるんですよ。ところが何万人も殺すのが平気に感じるようになったのが、非常に新しいんですよ。あれは戦後ヒットラーがユダヤ人を何十万人か何百人を殺した。それからドレスデンの爆撃でアメリカ、イギリスの爆撃隊が十万人殺したとかね。あと日本を無差別爆撃で殺したとか原爆落としたとか、それで何万人も一緒に死ぬんですよ。

そんなことはこの時代、支那事変が初まった頃は世界にないんです。何万人も殺すなんてそんな話ありませんよ。というようなことで私は、とばっちりで亡くなった人はいるだろうけどもね。

そんな人ないと思ったらですね。田中正明さんはね、東京裁判記録でもないみたいですよというんで、私は東京裁判記録だけはみました。そこではマギー牧師という人が証言してるんです。

「初めにたくさん虐殺があったそうです。」

「あったそうです。」

これは噂話ですね。そこでアメリカ人の弁護士が反対尋問したんですよ。

「マギー牧師さんね、あんたはいろいろな虐殺の噂を聞いていますが、あんたは何人みましたか?」

マギーさんは安全地区の一番頭のほうで身分の高い牧師さんで赤十字の代表みたいな仕事もしています。南京のどこでも自由に歩けるんですよ。日本軍は絶対外人には手を出しません。その人が証言してるんですよ。東京裁判で。さすがに牧師さんですから証言台では嘘は言わなかったと思うんですね。

アメリカ人の弁護士の反対尋問で

「あんた何人みましたか?」と訊いたら

「1人です。」

「じゃ、どういう状況ですか?」と訊いたら、

「南京の安全地区に1人の支那人の若い青年が入ろうとした。そしたら日本軍の歩哨が止まれと言った。止まらないで走って行った。それで後ろから撃たれた。」

これは虐殺ではありませんね。戦場で歩哨に止まれと言われて走り出す奴はこれは敵に決まってますから撃たれますよ。

そうしたら、皆さんだって今、ニューヨークの夜ですね、警官に止まれと言われて走って逃げたら撃たれる恐れありますよ。いわんや戦場です。

それから強姦の例はと言ったらね。

「これもたくさん聞きました。」といいましたというけど、

「何人みましたか?」

いくらでも見れるそうですよ。安全地区の一番上ですから。強姦があったとしたら安全地区以外にないわけですから、他のところには戦場ですから普通の人はいませんからね。

「1回です。」

と「それはどういう状況でしたか?」と訊いたら、

「ある部屋に行ったら日本の兵隊と若い女性がいた。」と

「兵隊は私の顔見たらびっくりしてですね。銃剣を忘れて逃げた。」

日本の兵隊さんが銃剣を忘れて逃げるほどね、それは軍律が厳しかったんですよ。そういうことするなという命令が徹底していたからね、そんなこと見つかったら兵隊さん大変だったと思われますね。

「それで私は銃剣持って追いかけて返しましたよ。」って言うんですよ。

考えてみますとそこに女性の兵隊とたまたま女性がいたけれども、それは行為があったかなかったかわからないんです。言ってないんですから。証言ではね。そしてあったとしてもその行為の後なのか前なのかわかりません。後だとしてもお金を払ったかどうかもわかりません。それがたったひとつの例ですよ。

それから「略奪は?」と言ったら、

いろいろ歩いていたらアイスボックス、箱ですね。昔は冷蔵庫や電気がないんです。氷を入れる箱です。

「それを担いで兵隊さんが出てきたのを見ました。」それがひとつだけですよ。

だから南京の安全地区の一番自由に動ける立場にあった代表的な牧師さんが、結局、それしか証言できなかったんです。

というようなこともあってですね、我々は実際とばっちりを受けた市民の数、これはたいした数ではないと思いますが、それは有りうると思いますが、組織的に殺すとかそんなことは有り得なかったってことは言えると思うんです。

虐殺が1人もなかったとはいいません。しかし、組織的な虐殺は有り得なかった。

国際社会も、当時日本は国連から脱退してますから国連は日本を敵視してますよ。にもかかわらず国連も一切取り上げなかったということでそれは組織的なことはなかったと思います。

そして今日本を苦しめている問題が二つあります。一つは従軍慰安婦問題、もう一つは南京大虐殺、大虐殺というのは市民大虐殺であって兵隊さんを戦場で殺すのは関係ないですからね。

この南京大虐殺と従軍慰安婦、二つとも根拠はありません。

それでこの二つが今日本を一番外交的に苦しめている、日本の名誉を落とそうとしている問題です。

みなさん、忘れないでくださいよ。

この二つのインチキの元は朝日新聞です。

というようなわけで私は組織的な虐殺は有り得なかったと断言できると思います。

引用先:「南京大虐殺」の歴史捏造を正す国民大集会

6:15~27:00(20:45)

https://www.youtube.com/watch?v=L_C7KVAfPls&list=LLl9euF_0zrA_5lYl3bCyeJA&index=12&t=1097s

補足:「パル判決書」の真実 著者 渡部昇一 PHP研究所 P213~215 より

南京でトラブルが起こったのは、南京を戦場にしたことが原因なのだ。オープン・シティにすれば、そんなことは起こらない。パリはドイツに占領されるときにオープン・シティにした。そうするとほとんど無血占領になる。これが近代におけるルールのようになっていた。

日本軍は南京にもオープン・シティの勧告をしているのに、中国軍は無視した。他の町ではさすがに懲りて、オープン・シティにしたようだ。だから、上海でさえ残虐な事件の話はない。長沙、衡陽、桂林、柳州などの件についても、パルはいう。

南京入城前の松井石根司令官の言葉も挙げられている。

『皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にして、長く竹帛 に 垂るべき事績たると世界の斉しく注目したる大事件たるに鑑み、正々堂々招来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等絶対になからしむべし』

参考
ちくはく【竹帛】 に 垂(た)る
文字に書きのこす。功名や手柄が書きのせられて後世にまで伝わる。歴史にのこす。

松井はまた、「必要でないときに中立地帯には立ち入らず、主要な地点には歩哨を配置し、外国権益や外交機関には絶対に接近してはならない」「孫文の墓である中山稜や革命志士の墓、明の皇帝の墓には入ってはならない」という指示も出した。

さらに、上海に戻ったのち、アメリカの新聞などが南京の日本軍が不法行為をやっていると報じているのを知り、次の訓令をだしている。

『入城式のときも注意したごとく、日本軍の面目のために断じて左様なことがあってはならぬ。ことに朝香宮が司令官であられるからいっそう軍規風紀を厳重にしもし不心得者があったなら厳重に処断しまた被害者にたいしては賠償または現物返還の措置を請うぜられよ』

したがって、「命令で行われた」残虐行為はありえないということである。

東中野修道氏が非常にうまいことをいっている。

以前、衆議院議員選挙での当選者の学歴詐称が問題になった。そのときに、根本の資料を当たればいいということで、卒業したとされるペパーダイン大学まで行って調べ、大学は卒業証書を」出していなかった。これで「卒業した」「卒業していない」の言い争いは終わりである。

南京事件もいろいろといわれているが、根本の資料まで辿ればいいというのだ。そして東中野氏は、最後は蒋介石の宣伝文に行き当たることを緻密に証明した。また、南京が落ちてから漢口まで200回もの外国人記者団との記者会見をしているのに、蒋介石自身は南京虐殺を口にしたことがないことも明らかになった。

南京大虐殺の嘘を暴く! Part1

【上智大学名誉教授の渡部昇一さんは次のように述べています】

南京大虐殺なんていう人がいたら「あなたは蒋介石さんよりも南京のことをよく知っているんですね」と言ってあげましょう。

蒋介石は一度も南京大虐殺なんて言ったことありませんよ。

毛沢東も言ったことありませんよ。

周恩来も言ったことありませんよ。

鄧小平も言ったことありませんよ。

どういう根拠で言うんですか。

根拠を出してください。

そうしたら根拠はないんです。だから我々はいろんな議論をするときは丁寧な議論の材料があります。しかし多くの場合は、いろんな議論の材料を出す間にぼやけちゃうんです。

だから簡単に「マッカーサーと蒋介石」この2つぐらいで日本の悪口を言う人の口を完全に塞ぐことができると私は思います。

東京裁判の証言台に立ったマギー牧師の証言

南京の場合もマギーというアメリカ人の牧師が「あそこでたくさん殺されました」「ここで強姦がありました」となんとか、かんとか言うんですよ。

そしたら最後にアメリカ人の弁護士が出てきまして

「今いろいろ牧師さんから聞いたけれど、それは全部伝聞だ」

「嘘である」と

「あなた自体は何人みましたか?」と訊くんです。

反対尋問です。

これは非常に痛いんです。というのはマギーという牧師さんは偉い牧師さんで南京の普通の人が安全地区に住んでいて、そこの赤十字の一番上のほうで、しかも安全地区の外人団体の一番上のほうですからどこでも自由に歩けたんです。

その人が「何人見ましたか?」と訊かれたら、やっぱり嘘は言えないんですね。

「1人」と言ったんですよ。

「1人」

それですぐに弁護士は「どういう状況でしたか?」と言ったら、安全地区に入り込もうとした中国人青年がいた。それで日本の歩哨が「止まれ」といった。止まらないで走っていったと、走って入ろうとしたと、それで撃たれたと。

これは虐殺と言いませんよね。

今だってねニューヨークに行って警官に止まれと言われて走り出したら撃たれますよ。いわんや戦場です。

というような具合で強姦も「らしきものを見たのが1つ」

「らしきもの」ですよ。

それから略奪もアイスボックスのようなこれくらいの箱を1つ空き家から持ち出している兵隊を見たことがあります。

とそれだけなんですよ。

引用元: https://www.youtube.com/watch?v=jlEsw6fZD0U&list=LLl9euF_0zrA_5lYl3bCyeJA&index=59&t=738s

【国史研究家 小名木善行さんは次のように述べています】

南京で30万人虐殺したという人がいます。でも当時の南京市の人口は20万人しかいないんです。

人口20万人のところでどうやったら30万人を殺せるのか。

しかも日本の軍隊が確かに南京城を包囲して南京城に入城したのも事実です。だけれども日本は南京城を取り囲んだ時に、なんと1週間の猶予を与えて空から飛行機でビラを撒き城内にいる民間人の皆様方はとにかく早く非難してください。何月何日何時何分から我々は砲撃を開始します。

しかも城内のどこに砲撃をしますから皆様方は弾が当たらないように非難してください。とビラ撒いているわけです。

日本人は約束守りますから本当にその日まで攻撃しないんです。

向こうにしてみれば、相手はその日まで絶対攻撃しないって分かっているわけです。銃を打ったって反撃してこないと分かっている。だから徹底的に攻撃してきたんです。迫撃砲なんかで砲弾も浴びているんです。でもその間、日本の兵隊さんはじっと我慢してるんです。

期日が来て攻撃開始になった。

攻撃開始になったと思ったら、南京にいた南京軍の司令官はさっさと逃げ出しちゃって、司令官が逃げちゃったら中国の軍隊は総崩れになってしまいますよね。それでみんな逃げていった。

城門を破って南京城内に侵入しました。

浸入してびっくりした。中は焼け野原です。

日本軍がやってくると分かった時点で民衆の住んでる民家を国民党が全部焼き払ったわけです。

なぜ焼き払ったのか?

日本の兵隊が隠れるかもわからないから、隠れるもなにも日本の兵隊は城壁の外側にいるわけですよ。それでも心配して民家を焼き払っちゃった。中はほとんど人っ子一人いない状態だった。

もちろん外国人特区と言って、外国人特区には外国人と難民がたくさんいましたけれども、あとは全部焼け野原です。

この焼け野原となった南京城内で実は当時日本の兵隊さんたちがたくさんの女性を保護しています。

どういう女性か?

目の見えない女性です。

なぜ目が見えないのか?

全員目を潰された女性なんです。

なぜ目を潰されたのか?

彼女たちは元売春婦なんです。

売春をするにあたって当時の中国では、売春婦が客の選り好みをしたら困るといって、売春させる女性はみんな目玉を針で突いて目をみえなくさせていました。これがウシハクということなんです。

要するに主人にとって売春婦というのはただの道具でしかない。人間じゃないんです。道具なんです。売春させて自分が儲けるための道具なんです。だから客の選り好みをしたり逃げ出したりしたら困るといってみんな目を潰すんです。

そもそも「民」という漢字はそういう漢字です。

日本では「民」という字は訓読みで「たみ」と呼びますね。「たみ」は「田んぼのみんな」です。

でも向こうは「みん」なんですね。「みん」はどういう意味かというと「民」という漢字は上に長四角がありますけども、あれは人間の目なんです。目なんですけども目玉がないですね。なぜ目玉が無いかといったら下に十字みたいなところがあって、これが人の目玉を潰す道具なんです。古代の中国からずっと使われていた。

「民」という漢字は塀の内側で民衆の目玉を潰して無理やり言うことを聞かせる。要するに「隷民」「奴隷」、つまり、ものでしかない人達というのが「民」という漢字の持っている意味です。

日本にはもともと大和言葉があって「みん」という概念はありませんでした。「たみ」です。どこまでも「たみ」です。みんな田んぼで働く仲間たち、ですから日本人にとって民主主義といえば田んぼで働く仲間たちが主役となる。そういう思想だって日本人は普通に理解します。

でも漢字圏の人たちっていうのはそうではないんですね。

民主主義っていうのは、目を潰された隷民が主役となる主義、なんだろう、意味がわからない、となってしまう。そういう文化の違いというのが根底にあるんです。

引用元:戦後70周年に向けて 第4部 日本の近代史を客観的に検証する https://www.youtube.com/watch?v=_RWZfy6RmsQ&list=LLl9euF_0zrA_5lYl3bCyeJA&index=52&t=2045s

【中国人の鳴霞さんは次のように述べております】

日本軍による南京大虐殺をしたことは、私の学校で習った歴史の教科書でみたことないし、中国共産党は蒋介石政府が中国人民30万人以上を殺したと教えていた。中国共産党の教科書では1979年まで南京大虐殺30万人を書かなかった。共産党の出版物の中にひとつも出てこないですよ。

→ 1997年に鳴霞さんのおじいさんが日本に来て「あれは国民党がやったんだ」と「なぜ日本がやったことになっているんだ」と驚かれたんですか?

揚子江に大量の遺体が流れ着いた写真があるけれども、あの写真は国民党が逃げるときに船に乗ったのですが、そのとき一般市民が逃げようとして船が難民でいっぱいになったんです。国民党軍は乗る隙間もないし、上官の命令で機関銃で殺したんです。その中には子供や女性、老人もいた。

「揚子江の虐殺は国民党がやった」と祖父が言っていたのよ。

国民党が殺した後に日本軍が来たのよ。ちょっとタイミングが悪かったから全部日本軍のせいになった。実は違うのよ。虐殺は(蒋介石の)国民党軍がやったんだよ。

→ 鳴霞さんは「南京大虐殺は嘘だ」と断言できるんですね?

南京大虐殺は国民党軍の嘘で、それを世界に発表したんですよ。

引用元:【重要証言】「南京大虐殺はなかった!証言集」https://www.youtube.com/watch?v=W0x5_iqs-r0

鳴霞さんとはこんな方です。日本に帰化したジャーナリスト。中国瀋陽市生まれ。満洲人。元中国共産党員、元・近畿福祉大学中国語課講師。

【南京大虐殺はなかったことを証明する貴重な映像をご覧ください】

【衝撃!証言】南京大虐殺は無かった!『南京の真実・第二部』 https://www.nicovideo.jp/watch/so25892143

渡部昇一語録 「韓国」

今日の韓国があるのは、明治の伊藤博文や井上馨がやったのを朴正煕が学んだからだと思いますよ。

朴大統領(1963年~1979年まで韓国の大統領)と言う人はですね。韓国で貧しい家に生まれたんですよ。

彼は日本の統治が始まっていなければ一生下層階級で終わったはずですが、日本がすべての人が学校に行けるようにしました。

そして貧しい農村の息子であった朴正煕も日本人が作った小学校に入れたわけです。

小学校では抜群の成績でした。しかし、それ以上いけない。中学校は金がかかりますから。それで当時朝鮮半島の小学校で教えておった日本人の先生がこの子をこのままで終わらせるのは惜しいと思いました。

彼を金のかからない師範学校に入れてあげたんですね。師範学校は先生になる学校ですからこれは授業料は要らない。そして多少生活の補助も出る。それで朴さんは師範学校に入ったわけです。

師範学校に入ったらこれはまた優秀でですね。こんな優秀な青年を単に一教師にしておくのは惜しいと、こう日本人が思いましてね。軍人の方がいいだろうと言うわけでたまたま満州に日本の軍人が教える師範学校みたいなのができた。そこに入ったほうがいいだろう。これもただですからね。

それで朴さんは師範学校から満州の軍艦学校に入る。そこでも抜群な成績なもんですからね。この青年を満州の学校だけで終わらせるのは惜しいという訳で日本の士官学校に入ったわけですよ。そうして日本の士官学校を出ました。

そして戦後は韓国に戻って韓国の軍人になりました。

ところが朴さんから見ますとね。バカな政治やってる訳ですよ。李承晩(韓国の初代大統領)なんていうのはね。明治の終わり頃かなんかに朝鮮から逃げ出しましてね。白人のお嫁さんもらってハワイでのうのうと暮らしていた男ですよ。

何にも知らない。

長い間朝鮮が如何に近代化しているか、どれだけの教育が進んでいるか、インフラがどうか、何も知らない奴がぽーと帰って来て韓国の政治やってるんですよ。

ですから韓国の経済はどんどんダメになりましてね。

朴政権が出る直前(1963年以前)までの韓国の経済の一人当たりのGNPはアフリカなみ、世界の最貧国のひとつだったんですよ。

そこで朴さんがクーデター起こして自分が大統領になったわけです。

で大統領になった朴さんが何やったかというと、維新政治です。明治維新の維新です。俺は明治維新のことをやるんだと。

そして何やったかと言いますと、日本を知ってますから、日本のようになるしか生きる道はない。

という訳で、今までまとまらなかった日韓基本条約(1965年)に調印したわけです。

日本にとって重要なのは、日本は賠償金は支払わなかった。ただ援助資金は払ったけどね。

朴さんのために。

それから「過去のことは言わない。」と一条入れさせた。

そうすると日本人は人が良いもんですから、どっと韓国を助けにいったわけです。

だいたいみんな剥ぎとらいたんですけどね。

それでも技術とかいっぱい残ったわけです。

それで朴さんは何やったかと言うと、どうして韓国と日本は明治の時代にあんなに差がついてしまったのか。徹底的に研究したわけですね。

それで財閥を作ったわけです。これ明治政府がやったのと同じ手ですよ。そしていくつかの財閥を作りました。財閥が核として韓国は奇跡(漢江の奇跡)を起こした訳です。技術は日本からいくらでもいきましたしね。

引用:第4巻 歴史に学ぶリーダーの心得 (致知出版社)

講師 上智大学名誉教授 渡部昇一先生