【学校では教えない日本の歴史① ペリリュー島編】

この話は今から77年前にパラオのペリリュー島という島で実際にあった話です。

日本軍は1万、アメリカ軍は5万と5倍の兵力の差があり、戦う前から日本が負けることは解っていました。

隊長の中川大佐は、もう自分はここに戻って来ることはない、と奥さんに言い残して本国を離れたのです。

何故、彼らは負ける戦いを承知で戦地に赴いたのでしょうか?

それは、日本本土にいる親、子供、奥さん、恋人の命を一日でも伸ばしてあげようという彼らの強い愛がそうさせたのです。

どの時代、どの国に於いても、歴史とは勝者の都合のよいように改ざんされるものです。

先の敗戦により、我々日本人はとんでもない悪い奴らだというレッテルを張られているのも、その性だと思います。

1945年。日本が敗戦すると、パラオはアメリカの下に渡った。アメリカはすぐに、二宮尊徳像や神社を破壊。パラオに浸透していた日本文化を徹底的に潰しにかかる。そして、熾烈な日本叩き教育を始め、「日本は悪魔」「日本は残虐で多くのパラオ人を殺した」と、長期にわたる学校教育での刷り込みを行っていった。

しかし、不思議なことに、いくらこのような教育をしても、パラオの人はそれらを一切信じなかった。 特に年長者たちは、「何を言いやがる。日本は素晴らしい。日本統治の時代が一番良かった。」と激怒し、「何があっても日本を愛している。」そう語った。

欧米列強に始まった植民地支配は、虐殺、略奪、強姦、搾取といった酷いもので、その国の発展などまったく考えておらず、すべてをむしり取りました。

それに対して我が国は、植民地というよりも日本の一部として、その国に道路、学校、病院などを建設したり、教育レベルの向上に寄与しました。言うまでもなく、これらはすべて我々の税金です。

パラオでの日本統治の様子は、当時よほど珍しかったのか、イギリスの「ロンドン・タイムズ」記者によって次のように報じられております。

「日本の役人、教師、医者、科学者といった専門家たちは新しい日本の国を作ろうと統治に努力している」

「現地住民も日本人に統治されてなんと幸運なことか」

「ここの人々は、世界の列強支配下にある植民地の中で、最も丁寧に扱われている」

ここから先はねずさんのブログより引用させてもらいます。

パラオとペリリュー島の戦いのお話

戦前まで、パラオは日本でした。

正確にはパラオは、日本の「委任統治領」といいます。

「委任統治領」というのは、国際連盟規約第22条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が、一定の非独立地域を統治する制度です。この制度は、もともとは、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として支配することに国際法的正当性を与えるために作られたものです。

だから、パラオは日本の植民地だった、という人がいます。

違います。

パラオは、あくまで国連からの正式な委任によって、日本が統治したものであり、その日本は、パラオから収奪するどころか、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆるものを与えました。

けれどそんなことより、もっともっと「はるかに大きなもの」を、日本はパラオに与えました。

そしてそのことを、パラオの人々は、いまも大切にしてくださっています。

それが、これからお話しする、勇気と愛の物語です。

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昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。

日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させています。

  

パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋防衛圏上の、重要な拠点となったのです。

日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。

なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背部を脅かす存在だからです。

昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。

米軍は、刻一刻と迫ってきます。

島民たちは、白人統治の時代を知っています。

そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。

そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。

こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。

いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。

全員です。

そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。

議場に籠って話し合い続けるのです。

そうして、みんなの意思を固める。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。

当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。

中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生です。

”陸軍士官学校とは?                              中学校でトップクラスの成績を取っていないと合格は望めず、入学するには、学力試験に加え、かなり厳しい体格検査、視力検査をパスしなければならなかったのです。成績が良ければ誰でも入れる今の大学とは違い、相当難しかったようです。”

日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。

中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。

家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って

「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。

「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。

そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。

だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。

ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。

「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。

一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙のあとです。

中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。

耳を疑った。

(俺たちのことを「土人」と言った?)

そのときは、ただ茫然としてしまいした。

指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。

断られたからではありません。

土人と呼ばれたことがショックでした。

怒りではありません。

あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。

それが「土人?」

信じていたのに。

それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。

みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。

ただただ悲しくて、悔しくて。

みんな泣いてしまいました。

何日か経ちました。

いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。

島民たちは、悄然として船に乗り込みます。

島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。

汽笛が鳴りました。

船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。

島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。

島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。

日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。

そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。

そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。

船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。

誰もが笑っています。

歌声が聞こえます。

そこには中川隊長の姿もありました。

他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。

素敵な笑顔だったそうです。

当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。

昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。

島に立てこもる日本軍10,500名。

対する米軍は、総員48,740人です。

火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。

最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払いました。

海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。

そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。

米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。

島はじっと沈黙したままです。

米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。

そのときです。

突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。

それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。

水際での戦闘は凄惨を極めました。

米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。

この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。

いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。

米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。

将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。

この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。

けれど、日本軍には、補給が一切ありません。

食料も水もない。

夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。

だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。

日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。

米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。

11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。

中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。

そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。

こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。

米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。

中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、嘉賞11度、感状3度を与えられています。

中川州男大佐

明治31(1898)年1月23日生まれ

昭和19(1944)年11月24日戦死

享年47才

戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。

米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。

戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。

彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。

戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。

けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。

島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。

そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。

そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年のことです。

独立したとき、パラオの人々は、独立記念の歌を作りました。

以下がその歌詞です。

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ

  オレンジ浜を血で染めた

  つわものたちはみな散って

  ペ島はすべて墓(はか)となる

  (注:ペ島=ペリュリュー島のこと)

二 小さな異国のこの島を

  死んでも守ると誓いつつ

  山なす敵を迎え撃ち

  弾射ち尽くし食糧もない

三 兵士は桜を叫ぴつつ

  これが最期の伝えごと

  父母よ祖国よ妻や子よ

  別れの”桜”に意味深し

四 日本の”桜”は春いちど

  見事に咲いて明日は散る

  ペ島の”桜”は散り散りに

  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく

  残りし洞窟の夢の跡

  古いペ島の習慣で

  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを

  身をこなにしてこの島に

  教えて散りし”桜花”

  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ

  時なしさくらの花びらは

  椰子の木陰で待ちわびし

  あつい涙がこみあげる    

そして、下にあるのが、独立したパラオ共和国の国旗です。

この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗なのだそうです。

パラオ共和国・国旗

周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわしています。

月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。

日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。

これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。

お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。

また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。

【ペリリュー島の戦い】

日本軍

 戦死者 10,695名

 捕虜    202名

米軍

 戦死者 2,336名

 戦傷者 8,450名

村人の死者、負傷者、0名

パラオについて、読者のNさんから、次のようなお便りをいただきました。

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最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。

今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。

12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。

空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。

日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。

街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。

夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて

「君たちは日本人か?」

と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。

そのとき老人が言ったことは家内が言うに

「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。

この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。

私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。

子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。

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もうすこし、パラオのことを書きます。

パラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことでした。

スペインが植民地として支配したのです。

スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。

スペインによる統治は、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間のことです。

けれどたった14年で、パラオの人口は、約90%も減少してしまったのです。

もともと、人口2万人くらいの島国です。

そのうちの90%が命を奪われた。

それがどういうことか、想像してみてください。

忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり、同様のことが起きた、という事実です。

南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえもわからなくなっている。

ほんの200年に満たない昔が、まるで超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。

米国においても、先住民族であるインデアンが、もともとは北米大陸に800万人の人口があったのに、いまでは、わずか35万人。しかもその全員が、白人との混血です。

「植民地になる」ということは、そういうことなのだ。

そのことを、私達はちゃんとわきまえる必要があります。

私達の先人が、日本が植民地とならないために、(なったら10人中9人が殺されるのです)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。

そのおかげで、いまの私達が生きています。日本という国があります。

平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。

それは他の誰でもない。私達の先人たちが、私達を守ってくれたおかげです。

そういうことを、私達は、ちゃんと知らなきゃいけないし、子供達に教えなきゃいけないと思います。

さて、スペイン統治によって、パラオは、人口の9割が失われたパラオは、もともと、産業のある国ではありません。スペインは、もうこれ以上パラオから収奪するものがなにもないとなったとき、わずか450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいました。

買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのだけれど、あまり効率はあがらない。同時に、ドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。

そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。

日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦のあとに行われたパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。

けれど、これは英米の頑強な抵抗にあって、頓挫してしまいます。

代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治です。

これは、ひとつには、日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と一緒になり、植民地支配者としての収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたものであったと言われています。

ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治の委任を受けるとすぐに、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。

それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。

ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめました。

その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始した頃の、パラオの先住民の人口は、わずか6,474人です。それが、いまやパラオは、人口20,303人(2005年)、なんと人口が3倍にも増えたのです。

当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。

中島敦といえば、「山月記」や、「李陵、弟子、名人伝」の著作で有名です。

彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人とまでいわれ、絶賛を浴びた人です。そういう優秀な人材が、パラオの人々のための教科書編纂掛として現地に赴任したりしていたのです。

日本はパラオで、日本語の教科書を使い、日本語の教育を行いました。

これには理由があります。

パラオには、パラオ語を書くための文字がなかったのです。

そして近代教育を施すため、たとえば数学や地理、歴史等の教育を行うにあたって必要な単語も、パラオにはありませんでした。

ですから、すくなくともいったんは、そうした単語を豊富に持つ日本語で教育を行うしかなかったのです。

パラオの子供たちは、実によく勉強してくれました。なんとパラオの子供達は、日本本土を含む、日本の支配地域の全域が参加する全日本共通テストで、総合第二位の成績を勝ち取っています。

これは、パラオで日本が、優秀な教育を施していたということの証拠であるとともに、パラオの子供達が、いかに教育を受けることを歓迎していたかがわかる逸話です。

ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。

まったくそういう都市インフラの整備事業にずっと接してこなかった現地の人たちに、いきなり「街を作れ、道路を作れ、橋を架けろ」と言われても、できる相談ではありません。

このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり東京タワーを作れ、といわれるのと同じで、そうそう易々とできることではありません。

では、日本はどうやってパラオのインフラを整備したかというと、日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。

「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。

まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。

そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。

そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。

日本パラオに派遣した職員の数は、軍隊を除いても、なんと2万5千人です。

そして日本は、パラオにあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄いました。

そして戦後は、前々からの宣言の通り、すべてのインフラをパラオの先住民たちに無償で譲り渡しています。

日本統治時代のコロールの街並み

ちなみにこの写真、大正から昭和初期頃に撮影されたとみられるパラオの町並みなのですが、写真の右側にハングル文字が映っているのがおわかりになりますでしょうか。

昨今の在日朝鮮人などは、日本が彼らの言語を奪ったなどとわけのわからないことを言いますが、日本人とともにパラオに来て働く彼ら朝鮮人のために、日本人はちゃんと彼らの文化を尊重したお店を作り、彼らのためのハングル文字の看板まで出しています。

短い期間でしたが、日本は委任統治を受けたパラオで、たくさんのことをしました。

学校をつくり、教育を与え、司法、行政、立法を教え、街のインフラを整備しました。

けれど日本人がパラオに遺したもの、それは、そうしたインフラよりももっともっと大きなもの・・・「ほんとうの勇気」、「ほんとうのやさしさ」だったのではないでしょうか。

中川隊長以下、勇敢に戦い、散って行かれたみなさまに、あらためて黙祷をささげたいと思います。

引用元→ ねずさんのプログ

https://nezu3344.com/blog-entry-2596.html

教科書には載っていない日本人が知るべき事実 「通州事件」

1964年7月10日、訪中した日本社会党の佐々木更三委員長が、過去の戦争について謝罪したとき、毛沢東主席は次のように言いました。

「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だったのです」 (毛沢東著『毛沢東思想万歳』下巻、三一書房)

この毛沢東の言葉は何を意味するか解りますか?

孫氏の兵法で「戦わずして勝つ」という有名な言葉がありますが、将に、軍略家の毛沢東はこれを実行したのです。

具体的には、蒋介石率いる国民党軍の中に毛沢東率いる共産党軍の工作員(スパイ)を潜り込ませ、国民党軍と日本軍を戦わせて漁夫の利を得たのです。それが、通州事件や大山中尉虐殺事件です。

話は変わりますが、1937年12月に起きた南京事件も同じようなことをやったと言われております。国民党軍の総指揮官、唐生智は共産党員ということが後からわかりました。

また駿台予備校の世界史の名物講師、茂木誠氏も次のように述べています。

アゲハチョウはミカンの木に卵を産みます。

卵から孵って芋虫になるが蝶になるのが半分以下なんです。

ほとんどはさなぎになったときに死んでしまいます。

それは1ミリもない小さな蜂が飛んできてこの蝶の幼虫に針を刺して体内に卵を産むのです。

知らないうちに体中を食い荒らされて、さなぎになった頃には体内で蝶が産まれて最後は穴をあけて出て行っちゃうのです。

つまり毛沢東の共産党は敵対する孫文の国民党に潜り込んで様々な悪さを仕掛けました。

  

以下、小名木善行さんのブログ(ねずさんのひとりごと)からの引用です。(一部省略しておりますが、詳細をお知りになりたい方は下記のリンクをご覧ください。)

ねずさんのひとりごと → https://nezu3344.com/blog-entry-1962.html

この事件を目撃した人の話【Sさんの体験談】が後ろの方に載っておりますのでこちらも読んでみてください。

通州事件から学ぶべきこと

通州事件の新聞報道

7月29日は、日本人のみならず、人類史として決して忘れてはならない「通州事件(つうしゅうじけん)」が起こった日です。

事件が発生したのは、昭和12(1937)年7月29日のことです。

いまは、かなりの人がこの通州事件の惨劇についてご存知のこととなっていますが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、もっと多くの人に、日本の常識、世界の常識として知っていただかなくてはならない、まだまだ拡散し続けなければならない事件であると思っています。

この事件について、公開して以降、さまざまなサイトにおいて、この通州事件などが存在しなかった、ねずのでっちあげにすぎないという説も飛び出していたようです。

けれど、この事件が実際にあったことは、冒頭に掲載した読売新聞の記事が、厳然と証明しています。

通州事件は、人類史上例をみない残虐虐殺事件です。

通州事件では、船津工作といって、邦人被害について日本は全部目をつむる。それまでの支那の要望を全部受け入れる。だから仲良くしましょうという案を、日本は支那に提示しています。

ところがその和平調印の当日、大山中尉虐殺事件が起こり、第二次上海事変にまで至ってしまっています。

日本が、仲良くしようと平和を望んだことが、逆に、戦乱を招いてしまっているのです。

これは歴史の教訓といえるのではないでしょうか。

逆に、なぜこのとき通州にいた邦人が狙われ、欧州人は狙われなかったのか。

ここは、非常に大切なポイントだと思います。

「やったらやり返す」という言葉があります。

「やり返す」というのは、もちろん暴力行為ですが、やられたから「やり返した」というのは、国際社会では、正当な行為です。

欧米人は、やられたら必ずやり返します。

実にシンプルな話なのです。

だから襲われない。

通州事件が起こったのは、冒頭に記した通り、昭和12(1937)年7月29日のことです。

この事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起きています。

そして半月前の7月7日には、盧溝橋事件が起きています。

なぜこの事件が起こったかといえば、それは中国共産党の策謀によるものです。

共産主義による世界革命(世界をクレムリンの支配下に置く)を標榜したコミンテルン(Communist International)は、ロシア皇帝を殺害し、ドイツ(プロイセン)皇帝を追い払い、はじめにヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

ところが欧州の列強各国は意外に手強い。

そこで欧州各国の富の源泉となっているアジアをまず共産党の支配下に置く、そのために、まずは混迷の続く支那を共産主義化することを、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定しました。

そして大量の工作員を支那に送り込み、毛沢東率いる支那共産党に莫大な経費を与え、支那の共産主義化の促進を図ったのです。

この共産主義の介入に、もっとも抵抗したのが、大清帝国崩壊後、新たに統一中国を築こうとしていた辛亥革命の志士たちでした。

なかでも武力による強硬策推進派だった蒋介石は、支那国土の混迷混乱を加速させようとする共産党を嫌い、これに対して徹底的な弾圧を加えていました。

とにかく共産主義者とわかれば、片端から銃殺にしていたのです。

いま、日本軍がやったとされる暴行、殺害の証拠として使われている数々の写真の多くは、もともとはこの蒋介石率いる国民党が、共産党員を捕まえて処刑したときの写真です。

ちなみに蒋介石は、たいへんな写真好きで、国民党のこうした処刑などの「活躍」を、写真集にして多数出版もしていました。

下にある写真は、日本軍の蛮行として使われた有名な映像ですが、実際には、殺害されているのが共産党員、殺害しているのが国民党兵士です。

支那の捏造写真73

こうした国民党による大弾圧によって、毛沢東率いる支那共産党は、勢力を落とし、追いつめられ、ついに支那の奥地にある延安にまで逃げ落ち、あと一歩で完全壊滅という情況に至っていました。

これを中国共産党史では、毛沢東の「東征」などと勇ましい言葉で飾っていますが、とんでもない。

ただ逃げ落ちていただけです。

ところが、ここで皮肉なことが二つ起こりました。

ひとつは、共産主義革命のための費用です。

共産主義革命のために、莫大な工作費(軍費)をソ連からもらっていた毛沢東は、共産党が追いつめられて勢力を落とすことによって、逆に予算面では余裕がでてきていたのです。

もうひとつは、毛沢東にとって敵となる蒋介石の慢心です。

あと一歩で共産主義を壊滅できると踏んだ蒋介石は、よもやこの時点で自分が共産主義者によって拉致監禁されるなどと思ってもみませんでした。

これが昭和11(1936)年12月に起きた、西安事件(せいあんじけん)」です。

ただ、この西安事件において「国共合作」がなされ、この瞬間から、蒋介石率いる国民党は、「安内攘外」と呼ばれる「まず国内の共産党を駆逐して国内を統一し、それから外国を打ち払う」という方針を捨て、国民党自体が共産党の手先へと変化しました。

日本がまったく知らずに、いまだ国民党は共産党を敵にしていると頭から何の疑いも持たずに信じ込んでいた一方側で、昭和11年の暮れには、こうした「国共合作」が成立していたわけです。

そして国民党の幹部将校に、次々に共産党の幹部たちが密かに採用され、入り込み出したのです。

こうした事前準備が整った上で、その半年後にあたる昭和12年7月7日に起きたのが、「盧溝橋事件」です。

この事件は、北京近くの盧溝橋のあたりで実弾も持たずに演習中だった日本軍めがけて実弾が発射され、これに合わせて近くにいた国民党軍にも実弾が撃ち込まれたという事件です。

普通なら、これで両軍が大衝突を起こしたところです。

実際、支那共産党は、これで日本軍と国民党軍が大衝突を起こし一気に戦乱の火ぶたが切って落されると信じ込んで、この翌日には早々に、「日本と衝突が起きた、全軍は愛国心を結集して断固日本軍に立ち向かうべし」という、俗称78通電というものを発しています。

ところがこの伝文野内容を見ると、最初の発砲ですぐに両軍が衝突したと書かれています。

実際には、発砲を受けても、日本は戦乱を回避するために、一切の反撃をしないで、じっと我慢をしていました。

ということは、これが何を意味するかというと、この78電文は、事前に準備してあった計画電文だったということです。

しかも日本は、盧溝橋にいた国民党軍と交渉を重ね、7月11日には現地の国民党軍司令官の宋哲元との間で現地停戦協定を結んでいます。

この現地停戦協定は、「松井・秦徳純停戦協定」と呼ばれるもので、その内容は、

1 国民党軍が日本軍に遺憾の意を表して責任者を処分すること

2 将来このような事件が再発しないようにすることを声明すること。

3 国民党軍が盧溝橋城郭付近から撤収すること

4 抗日団体を取り締まること

等々、その内容は、全面的に国民党側が非を認め、現地から撤収するという内容です。

これで現地で、事件は解決し、まるくおさまってしまったのです。

ところがこれで困るのは、支那共産党です。

スターリンのコミンテルンからの命令は絶対です。

そのスターリンは、日本と国民党軍を衝突させろ!という。これは厳命です。

そこで、支那共産党が次に仕掛けたのが先日ご紹介した、7月25日の廊坊事件、26日の広安門事件だったわけです。

この間、二週間が経過しているのは、新たな作戦のための準備期間が必要だったことと、コミンテルンと支那共産党とのやり取りが交されていたということによるものではないかと思います。

ともあれ、こうして廊坊事件、広安門事件が起こりました。

前にも述べたし、これからも何度でも述べますが、盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。

これだけで、日本は支那と開戦するに足る十分な理由となる事件です。

実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。

日本には、この時点で支那に対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底して支那を撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

それでも日本は、戦争になることを避けようとしました。

当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国は支那ではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったわけです。

日本は、支那などと戦う気は毛頭なかった。

むしろ日本陸軍に限らず、日本人の誰もが願っていたのは、支那の大地に戦乱のない平和な社会の回復そのものでしかなかったのです。

だからこそ、日本は、明らかな開戦理由となる事件が起こっても、支那の兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃等はしませんでした。

ところが、そうした日本の姿勢が、ついに7月29日、「通州事件」をひき起こしたのです。

廊坊も、広安門も、通州も、等しく北京とその近郊です。

そして通州事件が起こる前、通州城界隈に終結したのは、廊坊や広安門で蹴散らされた支那国民党の残兵たちと、支那共産党の工作員たちでした。

その数、約3000人です。

この日の午前2時、突如、支那人たちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。

そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。

女性はほとんど強姦されて殺害されました。

殺害方法もきわめて猟奇的な事件です。

旅館の近水楼では入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。

帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。

女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。

カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。

南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた

(第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言 中村粲 『大東亜戦争への道』展転社)

私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。

20名はほんの子供のような少女だった。

家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。

空中にぶらぶらされる拷問である。

共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。

日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。

そして1日中続いた。

日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。

家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。

それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。

多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。

水は彼らの血で赤く染まっていた。

何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。

中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。

古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。

この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。

しかし120人は逃げおおせた。

犯され殺された者の多くは子供であった。

この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。

中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。

目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。

アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。

(中略)

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。

彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。

私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。

他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。」

(フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 -日中戦争の真実-』)

この通州事件で何があったかの詳細は、調寛雅著「天皇さまが泣いてござった」に詳しい記述がありますので、末尾でご紹介します。

資料としても第一級の資料なので、是非、ご一読いただきたいと思います。

では、この通州事件のあと、日本はいったいどうしたのでしょうか。

世界中の誰がどうみても、世界史に類例のない残虐非道な事件で、邦人が殺害されたのです。

それこそ北朝鮮ではないけれど、日本は「容赦ない無慈悲かつ徹底した鉄槌を」くだしても、なんら咎められる筋合いはないといって良いくらいの事件です。

けれど日本は、それでも支那との戦争を避けようとしました。

この事件のあとの会議では、日頃意見が衝突しがちな陸軍、海軍それぞれの首脳も、当時の内閣も、全会一致で、それでも戦争を避けようという意見で一致しています。

なぜでしょう。

理由は簡単です。

当時の日本の陸軍兵力は最大で25万です。

これに対して、支那国民党は210万です。

苦しい戦いになることは自明の理です。

加えて、日本がなぜ支那に軍を進出させていたかといえば、それは支那に平和をもたらすためです。

その平和をもたらす使命をもって派遣している日本の兵が、支那で報復のための戦いをする、支那を戦乱のルツボに叩き込むというのでは、話にならないからです。

日本は、日本政府の意思として、8月4日に、支那人たちにたいへん信頼が厚い元外交官で実業家の船津辰一郎を通じて蒋介石に、きわめて寛大な和平を働きかけました。

これが「船津工作」と呼ばれるものです。

その骨子は次の通りです。

(1) 塘沽(たんくう)停戦協定、梅津・何応欽(かおうきん)協定、土肥原・秦徳純協定など、

日本に有利な北支那に対する軍事協定をすべて解消する。

(2) 非武装地帯を作る。

(3) 冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く。

(4) 日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す。

この4項目が何を意味するかというと、その時点で支那国民党が日本に対して希望していたすべての条件を丸呑みする、というものです。

通州事件のみならず、盧溝橋、廊坊、広安門の各事件の賠償さえ要求していません。

223名の邦人が大虐殺されるという被害に遭いながら、いっさいの賠償請求もせず、日本は、逆に支那の希望要求を、全部飲むという条件を提示したのです。

全部飲むのです。

そうなれば、もはや、支那が日本を敵視し攻撃する理由など、何もなくなります。

そうなれば、当然に、支那と日本との軍事的衝突も回避され、亡くなられた方々にはお辛いかもしれないけれど、結果としてその命が、両国の平和、それ以上に、支那の未来永劫の平和な社会建設のために役立つなら、それがいちばん良い解決の道だ、日本はそう判断したのです。

そしてこの船津工作は、8月9日は、上海市内で、日本と国民党双方の代表団が集い、相互に調印を図る段取りとなりました。

ところが、その当日に、上海で大山中尉虐殺事件が起こります。

海軍の上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後大尉に昇進)が、斉藤要蔵一等水兵の運転する車で移動中に、支那国民党の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて死亡したのです。

自動車のわきにあった大山中尉の遺体は、多数の機関銃弾を受けていただけでなく、ご丁寧に頭を青竜刀で割られていました。

斉藤一等水兵は運転台で多数の銃弾を受けて死んでいます。

この事件の発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になりました。

そしてこの1週間後に起きたのが、第二次上海事変です。

「かつて日本が支那を侵略した」という人がいます。

けれど、歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチで支那に軍を派遣していたのです。

それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。

以下は先日行われた日本史検定講座の藤岡信勝先生の講義からの引用です。

=========

「侵略」は、英語で「aggression」です。

「aggression」は、「unprovoked attack」のことをいいます。

「attack」というのは「攻撃」です。

「provoke」は、「挑発」です。

その「provoke」に「un」が付いていますから、「挑発されないのに行われた攻撃」のことを、「aggression=侵略」というのです。

挑発されて、つまり相手が刃を突きつけてきたので、身が危ないからと反撃する。

これは「un」のつかない「provoked attack」です。

ですから「provoked attack」は、全然「侵略」ではありません。

日露戦争も、日本が先に攻撃していますけれど、あれも「provoke」されたから、正当性があるのです。

=========

盧溝橋、廊坊、広安門、通州と、日本は「provoke(挑発)」され続けました。

そしてついには、国民党が入念に戦闘準備した上海で、第二次上海事変が起こりました。

日本は「provoke(挑発)」され続けたから、「attack」したのです。

つまり、日本は、正当な攻撃を行ったのです。

このことは、通州事件の悲惨とともに、世界の歴史に銘記すべきことです。

みなさん、私たちの国は、盧溝橋、廊坊、広安門、通州と、さんざん挑発(provoke)を受けたから、戦ったのです。そしてその都度、和平の道を探ろうと、真剣に真面目に努力し、挙げ句の果てには、通州で223人もの邦人を虐殺されるという事態まで招きながら、それでも支那の要求を全部飲むから和平を結ぼうと、譲歩までしているのです。

そして、それにも関わらず「日本が侵略した」とデタラメを喧伝され、挙げ句の果てがそれに迎合する日本人(そのほとんどはなりすまし日本人や在日朝鮮人)たちに嘘八百を刷り込まれ続けてきて、さらには多額の経済的援助金まで支那や朝鮮にふんだくられているのです。

みなさん、日本は目を覚ますべきです。もうデタラメはうんざりです。

以下に、調寛雅著「天皇さまが泣いてござった」から、「Sさんの悲劇」を転載します。

転載にあたっては、徳島の保守さんが、本から正確に文章をネット上にあげてくださったものを引用します。

【Sさんの体験談】

私は大分の山の奥に産まれたんです。

すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。

それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。

小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。

大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、

「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。

冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。

「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。

それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。

それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。

でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。

自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。

私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

通州事件の惨劇02

通州事件04

それは昭和九年の初め頃だったのです。

Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。

今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。

それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。

日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。

そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。

Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。

だから買う人にとってはとても便利なんです。

Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。

Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。

私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。

そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。

それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。

何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。

Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。

そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。

だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。

いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。

するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。

するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。

日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。

そして安重根という人の話を語りました。

伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。

我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。

なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。

こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。

Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。

でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。

私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。

日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。

私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。

すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、

「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。

そして最後に用心して下さいということを書いておきました。

この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。

これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。

このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、

「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

その当時のよく言われた言葉に、

「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。

しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。

私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。

私はびっくりしました。

それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。

そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、

「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。

何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。

しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。

そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。

この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。

そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。

でもTさんはそれを許しません。

それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。

支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。

このときはとても悲しかったのです。

それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。

ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。

このことが大変悲しかったのです。

私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。

それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、

「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」

と言うのです。

そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。

それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。

Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。

今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。

そして「危ない」「危ない」と申すのです。

それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。

だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、

「日本人皆殺し」

「日本人は人間じゃない」

「人間でない日本人は殺してしまえ」

というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。

支那人達が大騒ぎをしているのです。

何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。

そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。

でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

この頃でした。

上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。

済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。

蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。

私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。

どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

通州事件の惨劇03

通州事件03

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。

突然私はTさんに烈しく起こされました。

大変なことが起こったようだ。

早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。

町には一杯人が出ておりました。

そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。

何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。

私はTさんと一緒に逃げながら、

「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。

でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。

私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が、

「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。

突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。

最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。

もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。

そして、

「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」

と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。

私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。

ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。

それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。

私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。

それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

通州事件の惨劇04

通州事件02

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。

私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。

何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。

只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。

Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。

それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。

何か生臭い匂いがするのです。

血の匂いです。

人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。

沢山の支那人が道路の傍らに立っております。

そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。

いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。

十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引き出して来たのは学生でした。

そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。

体はぶるぶると震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。

そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

支那でも七月と言えば夏です。暑いです。

薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。

娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。

学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。

そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。

そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

何かグシャッというような音が聞こえたように思います。

頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。

保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。

この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。

服が破けます。

肌が出ます。

血が流れます。

そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。

血がパーッと飛び散ります。

その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。

それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。

又腹を突きます。

胸を突きます。

何回も何回も突き刺すのです。

沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。

この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。

暴虐無惨と申しましょうか。

あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

この娘さんは既に全裸になされております。

そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。

そして陵辱をはじめようとするのです。

支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。

どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。

私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。

目をしっかりつぶっておりました。

するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。

私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。

何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。

その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。

見てはいけない。

見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。

それから剣で首を切り落としたのです。

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。

投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。

しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。

そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

この残虐行為をじっと見つめていたのです。

腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。

そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。

想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。

そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。

すると何か私の胃が急に痛み出しました。

吐き気を催したのです。

通州事件の惨劇05

通州事件01

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。

Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。

怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。

若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかし支那人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。

だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。

殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。

十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。

とても人間のすることではありません。

悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。

いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。

そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。

学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。

そして勿論裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。

この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。

外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。

学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさんにしがみつきました。

Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。

「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさんの周囲には何人もの支那人達がいました。

そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。

氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

しかしようもまあこんなに沢山支那人が集まったものだなあと思いました。

そして沢山集まった支那人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。

こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。

この沢山の人の中には男もいます。

女もいます。

私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。

日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。

一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。

可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。

どうしてやることも出来ないのです。

言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。

頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。

いやその一部からは出血さえしております。

髪はバラバラに乱れているのです。

とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。

左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。

只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。

そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。

すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。

その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。

何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。

何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。

この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。

恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。

私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。

家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。

沢山の日本人が殺されています。

いやまだ殺され続けているのです。

あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。

私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。

耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。

一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

お婆さんは仰向けに倒れました。

学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。

私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。

「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。

「いちぞう、いちぞう」

と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。

私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。

そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。

それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。

七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。

恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。

歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。

そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。

妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。

一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。

若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。

そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。

すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。

しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。

私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

するとどうでしょう。

この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。

この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。

この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。

日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。

日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。

そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。

私はあんな残酷な光景は見たことはありません。

これはもう人間の行為ではありません。

悪魔の行為です。

悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。

このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。

そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。

ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。

十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

私はTさんにすがりついたままです。

何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。

別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。

このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。

残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。

そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。

野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。

まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。

出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。

学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。

フラフラと立ち上がりました。

そして一生懸命逃げようとしたのです。

見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。

妊婦はバッタリ倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。

するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。

国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。

私は何をするのだろうかと思いました。

そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。

剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。

私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。

片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。

赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」

と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。

しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。

そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。

そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。

それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。

それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。

私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。

それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。

そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。

ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。

保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。

恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。

何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。

そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。

するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。

五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。

そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

引き金に手をかけたらそれが最期です。

何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。

日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。

その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。

機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。

そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。

このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。

そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。

只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

五十数名の日本人は皆倒れているのです。

その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。

何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。

全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。

見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。

何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。

私には全然わかりません。

只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。

私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。

その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。

若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。

Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。

殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。

国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。

ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。

そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。

これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。

この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。

二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。

四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。

四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。

全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。

Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

そして見たくはなかったけど池を見ました。

真っ赤な池です。

その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。

Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。

しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。

日本の飛行機が一機飛んで来ました。

日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。

それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。

その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。

でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。

このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。

私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。

今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

ウイグル人弾圧についてのレポート

はじめに

皆さんは、ウイグル、南モンゴル、チベットで何が行われているかご存知でしょうか?

最近はこれに香港も加わって酷い蛮行が行われております。これらの国々は中国共産党から酷い弾圧を受けているのです。中でも今回は、最も酷い弾圧を受けているウイグル問題を取り上げてみました。

これは日本ウイグル協会がまとめたレポートを私が解かり易く編纂したものです。詳細を知りたい方はウイグル協会のHPをご覧ください。(巻末にURLが掲載しております)

1840年に始まったイギリスと清とのアヘン戦争により、香港はイギリスに割譲され、1898年に租借期間が99年と決められました。その契約が守られ、99年後の1997年に香港は中国に返還されました。このときイギリスのサッチャー首相と中国の鄧小平氏との間で50年間は一国二制度を守るという約束が交わされました。しかし、2047年までの約束だったはずが、習近平国家主席によってわずか22年で反故にされてしまいました。

 鄧小平氏(左)とサッチャー首相(右)

香港の人々にとって、これはどういう事を意味すると思いますか?

欧米では香港問題は大きな事件としてメディアで取り上げられておりますが、残念なことに我が国ではあまり取り上げられておりません。また、興味がないという人が非常に多いのも事実です。なので私はこの問題の真実をできるだけ多くの日本人に知ってもらうためこのレポートを作成しました。

共産主義国家中国に飲み込まれたら、自由も民主主義も人権もあったもんじゃありません。だから彼ら香港人は何もかも捨てて、命がけで戦っているのです。苦労して一流大学に入ったにもかかわらず、それを棒に振ってまでデモ活動をするということは、香港が中国化したら如何に大変で悲惨な目に遭うことが予想できるので彼らは死ぬおもいで戦っているのです。

の鳥も生まれた時から
籠で飼われていたら
それが当たり前
しかし、野生で育った鳥は
籠には入れない

香港人(民主主義)と中国人(共産主義)はこの鳥のように全く違う生き物であると私は思います。

昨年のデモ活動によって多くの尊い命が失われました。2019年6月~11月までの間で、死者2500人以上、自殺者250人、行方不明者6000人以上という有様です。

ある15歳の少女は、全裸になって海で発見されました。香港警察は何の疑いもなくすぐに自殺と断定して焼却処分にしてしまいました。彼女は水泳が得意だったそうです。

そんな泳ぎの得意な人が海に飛び込んで自殺しますか?

女性が全裸で自殺なんかすると思いますか?

         香港で自殺と称する死体で見つかった15歳の少女

またある男性はビルから飛び降りて自殺しました。しかし、現場には血が一滴も流れておりませんでした。

生きた人間がビルから飛び降りて血が一滴も流れないなんてありえますか?

恐らく彼は警察に逮捕されたあと、酷い拷問にかけられて死亡したのでしょう。警察はそれを隠蔽するため自殺に見せかけ、ビルの屋上から放り投げたのだと言われております。

このような不可解な自殺ばかりを目撃した香港の学生達はどうしたか分かりますか?

警察に逮捕される直前みんなの前で次のように叫んだのです。

「私は○○です!」

「私は絶対自殺しません!」

こうやって自分の名を名乗ることによって、不当に殺さたらそれは自殺ではなく中国共産党に殺されたんですよ、と暗に匂わせているのだと思います。

一体、行方不明となった6000人以上の人々はどこへ消えてしまったのでしょうか?

おそらくこの国の過去の歴史から推測すると、女性は強姦されたあと殺され、男性は拷問したあと、殺して焼却処分にしてしまったと考えるのが妥当でしょう。もし、遺体を焼却しないでどこかに埋めた場合、後から発見されたらDNA鑑定でどこの誰だか特定されてしまうのです。しかし、灰にしてしまえば証拠は一切残りません。行方不明者として処理すれば完全犯罪となります。この6000人以上の行方不明者 のほとんどの人は 、中国共産党によって殺されたんだと私は思います。

参考
2019年12月21日付の大紀元時報によると、元香港警察長官・曾偉雄氏は
中国本土の公安、武装警察、人民解放軍の予備兵士から人材を募り、
「香港警察」として勤務させたという。


https://www.epochtimes.jp/p/2019/12/49993.html

話は変わりますが、1949年10月1日、中華人民共和国が建国され、その翌年の1950年10月26日に毛沢東率いる中国人民解放軍は真っ先にチベットを侵略しました。

「チベットの人々をチベット仏教の迷妄から解放してやった。」

というのがその理由です。しかし、実際に行なったことは正反対でした。彼らは、チベット仏教の寺院の98%、6000余りを破壊し、僧侶や尼僧多数を殺害しました。かつてチベットに僧侶は十数万人いましたが、その多くが殺害され、1959年のチベット動乱後に残った僧侶はわずか数千人のみでした。

破壊を免れた寺院は、観光資源として利用され、ダライ・ラマ法王の肖像画に代わって、毛沢東、鄧小平をはじめとする中国共産党指導者の肖像画が掲げられ、経典は取り払われ、僧侶には毛沢東思想の学習が強要されました。また中国共産党に対する抗議は一切許されず、平和的な集会やデモでも、参加すれば投獄され、逮捕者の多くは殺害されるか行方不明のまま戻ってこないのです。

参考
チベット侵略の目的は水源を抑え、この水源に頼っている国々を
間接支配することだとチベット人のペマ・ギャルポ氏は述べて
おります。

環境的にも、チベットは「三極」と呼ばれており、北極、南極に
加えて三番目に大きな氷がある地帯です。
ほとんどの川の水源になっています。
ここからアジアの多くの河川に水が流れていきます。

ガンジス川はインドへ、ブラフマプトラ川はバングラデシュと
インドへ、メコン川はタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアに
流れています。

揚子江、黄河は中国の文明の源ですが、いずれも水源はチベット
にあります。

   

1989年6月4日には天安門事件(天安門虐殺)では1万人の人間が殺されたとイギリスの機密文書で報告されております。これは国を良くしようと真剣に考えていた学生達の民主化運動に対して、その数の多さに恐怖を抱いた中国共産党が鄧小平の命令によって軍隊をもって強制的に鎮圧した虐殺事件です。中国共産党は自分たちと同じ漢民族の学生達に対してもこのような酷い仕打ちをしたのです。彼らは自国の人間にも容赦しません。

参考
「1人の兵士がやたらめったら銃を撃ちまくっていて、群衆に向かって
無差別に発砲していた。3人の若い女子学生が、この兵士の前にひざま
ずいて、もう撃たないでと懇願していた
」と、ホルトさんは語りながら、
両手を合わせて拝む仕草をした。

「なのに兵士は、3人を撃ち殺した」

記録映像の中で、ホルトさんは続ける。

お年寄りが、道を渡ろうと手を上げた。すると同じ兵士は、
このお年寄りも撃った
」。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48494268

そして酷いことに彼らはこの大事件を自国の教科書から抹消してしまいました。だから最近の中国の若者はこのことを知らないそうです。

天安門事件で戦車に轢き殺された写真(自転車ごと轢かれた模様)

  

北京大学の仲間が大勢殺され中国に愛想をつかして日本に帰化した石平さん

この後、天安門事件と同じような事件が二度も新疆ウイグル自治区で起きています。

一つは、1997年2月5日のグルジァ事件(虐殺)、もう一つは、2009年7月5日のウルムチ事件(虐殺)で、これらも平和的なデモ活動に対して中国共産党はまたもや武力で鎮圧しました。

上記にあげた事件すべてに共通しているのは、中国共産党は自分たちの政策に反対したり、共産党の崩壊に繋がるような予兆があると、即座に軍隊を投入し、人間を虫けらの如く殺しまくるのです。

隣国でこのような酷い弾圧が起こっているのに我々日本人は沈黙していていいのでしょうか?

特にウイグルではヒットラーのナチスドイツよりも酷い虐殺が今現在も行われているのです。

チェ・ゲバラは次のような言葉を残しております。

『世界のどこかで、誰かが蒙っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。』

彼はアルゼンチン人でありながら、キューバという国でカストロと共に銃をもって戦い、キューバ革命を成功に導いたのです。彼は己の理想や正義感のために他国で命をかけて戦った英雄なのです。

n and revolutionary, left, and Ernesto Rafael Guevara de la Serna, known as Che Guevara (Rosario, 1928-La Higuera, 1967), Argentine revolutionary, photograph. (Photo by DeAgostini/Getty Images)

我々日本人は命がけで戦うことは無理でしょう?

ならば違う形でこの国(中国共産党)の不正行為を止めさせるべきではないでしょうか?

戦国時代に生きた武将、毛利元就は、わが子に “三本の矢の団結” の大切さを教えました。

政治とは民意の反映です。

我々日本国民は一人一人が束になって大勢で結束し、それを為政者に嘆願すれば国を動かすことだってできるのです。

我々にできる最も身近な手段は、安倍総理に直接抗議のメールを送ることです。

そんな難しい内容である必要はありません。短文でいいのです。

「安倍さん、ウイグル人を助けてあげてください。」

「安倍さん、香港人の弾圧を中国政府に抗議してください。」

「安倍さん、平和に暮らす人々を不幸のどん底に陥れる習近平政権を許すな!」

この程度で十分だと思います。内容は自分自身で考えてください。

どうか、みなさん!

自分さえ良ければいい!

なんて考えはもうよしましょう!

人類みな兄弟!

どうか皆で救いの手を差し伸べてあげようじゃありませんか!

『安倍総理にメールを出しましょう!』

ご意見募集(首相官邸に対するご意見・ご感想) https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html

または

検索 → 「首相官邸 意見」 → 「ご意見募集‐首相官邸」

                                 

日本ウイグル協会会員  爲永 稔

          

  

中国のウイグル人への弾圧状況についてレポート【第2版】

在日ウイグル人一同・日本ウイグル協会

2019年 9月 27日

第一章 概要

古代より東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)は、ヨーロッパと東アジアをつなぐ要衝であるだけでなく、石炭、石油、天然ガス等地下資源の豊富な地域である。1949年に中国人民解放軍が東トルキスタンに侵攻し、「新疆ウイグル自治区」として共産党の支配下に組み込んだ。それ以来、中国当局によるウイグル人への差別的、抑圧的政策がずっと続いてきた。

だが、3年前から事態が急変し、ウイグル情勢は著しく悪化した。2016年に元中国共産党チベット自治区委員会の書記で、チベット人の弾圧で手腕を発揮した陳全国が“新疆ウイグル自治区”の書記に就任してから、独裁的な長期政権を築いた習近平中国共産党総書記をバックにし、東トルキスタン歴史の中で最も酷く露骨な人権弾圧、同化・民族浄化政策を展開し始めた。習近平政権が推進する現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」の戦略的要衝とみられる東トルキスタンに、完全な監視・封じ込めた社会を作り上げ、ウイグル人の言語、文化、宗教を完全に絶滅させるような民族浄化政策を実施している。

陳全国が就任して以来、前任の張春賢が推進した「双語(バイリンガル)教育」をさらに露骨化し、小学校から大学まで全ての教育機関でウイグル語の使用を禁止した。ウイグル語で出版された教科書、小説、歴史を反映する本、イスラム教に関連する書籍を焼却した。陳は、1年も経たない間に、9万人を越す治安関係ポストを募集し、ウイグル自治区の警察の人員を2015年の6倍に増員し、ウイグル地域において「監視社会」の完成を手掛けた。2017年第1四半期(1~3月)のみで、ウイグル自治区で10億ドル(約1130億円)以上に相当するセキュリティー関連の投資をし(カシュガル市だけで今年3月、5100万ドル(約55億円)以上を投じた)、ウイグル全地域に人工知能(AI)の顔認証技術が搭載された監視カメラを設置した。中国政府はウイグル自治区を最先端の監視技術を試行する実験場にした。至る所に500m間隔で監視塔付きの交番(検問所)を設け、24時間体制で検問・監視を始めた。全てのウイグル人から旅券が没収された。スマートフォンにスパイウェア・アプリのインストールを強要した。GPS の車両搭載が義務付けられた。

     陳全国

ウイグル、カザフなど現地住民の政治信頼度を評価するため、「個人情報採集表、点数表」を配布し、全住民に点数をつけ、身分証明書ID と連結させた。この点数で拘束対象者を決め、「再教育センター」に収監した。12歳から65歳までの住民を対象にDNA や血液のサンプル、指紋、虹彩認証(目の瞳孔を取り囲んでいる色の薄いドーナツ状の部分で認証する)、血液型などの生体データを集めた。

最も酷いのは、2017年初頭から、「再教育センター」、「教育転化学校」、「技能研修センター」、「職業技能教育訓練センター」という名前の「強制収容所」の建設を急ピッチで進め、何も罪のない300万人のウイグル人(ウイグル人口の約30%)をこれらの収容所に監禁し、共産党の政治思想、宗教転化(非イスラム化)、民族アイデンティティを破壊するための「洗脳教育」を行っている。

ウイグル人社会に何らかの影響を持つ著名人、教育界のエリートたち、医者、著名なイスラム学者、人気のスポーツ選手、音楽家、経済界で成功した経営者(銀行に100 万円以上貯金のある人)らも続々と強制収容所に入れられた。両親が拘束され家に残された子供たちが孤児園に送られた。そして、各収容所から続々死者が出始めた。遺体は家族に返さずに内密に「処分」された。

カシュガル空港では「人体器官運送通路」、「移植器官航空運送保障プロセス」標識の専用通路やスペースが用意され、臓器売買のため国家ぐるみで「臓器狩り」をしていることが明らかになった。

21 世紀の今この瞬間も、中国政府が行っている「ナチス強制収容所の再現」(ジェノサイド)とも言える人権弾圧、民族浄化に対し、アメリカ政府が中国政府を非難し、収容所の閉鎖、全収監者の即時釈放を呼び掛けるほか、9月11日アメリカ上院で「ウイグル人権政策法案」を通した。

しかし、日本政府の沈黙がまだ続いている。納税者である我々在日のウイグル人は、日本政府と国民に対し以下を呼びかけたい。沈黙しないでほしい。中国政府を非難し、収容所の閉鎖、全収監者の即時釈放に働きかけてほしい。これは単に人権弾圧の問題ではなく、「人道に対する罪」、世界平和への挑発であり、ウイグル民族存亡の危機とみてほしい。

第二章 「強制収容所」の現実

米国防総省アジア・太平洋安全保障担当のランドール・シュライバー次官補は今年5 月の記者会見で、同自治区の収容施設を「強制収容所」と呼び、推計「300万人」が拘束されていると非難した。東トルキスタンの人口は2300万人(2014年統計)で、ウイグル人口は48.5%、約1130万人だとすると、ウイグル人口の約30%の人が「再教育」されているのだ。

報道によると、2017 年春以来強制収容所に収監された人で 釈放された人が一人もいないという。

何も罪がなく、「要注意人物点数表」でマイナス点数が高い人が収容所送りの対象者となっている。

例えば、

(1)ウイグル人である
(2)イスラムの礼拝をしている
(3)宗教知識がある
(4)(当局が要注意とする中東など)26 カ国に行ったことがある
(5)外国に留学した子供がいる

といった項目に該当すれば要注意人物として対象者となる。また、ウイグル人社会に何らかの影響を持つ著名人、教育界のエリートたち、イスラム学者、人気スポーツ選手、音楽家、経済界で成功した裕福な経営者らも「民族情绪(民族的気持ち)がある」、「両面人」として収監対象者となっているのである。

※ 意味:両面人とは、共産党内にいて、じつは反共的思想をもつ人間をいう。

収容所の状況は海外メディア、研究者らによって次々と報道されるようになった。Bitter Winterが中国共産党内の情報筋によりつかんだ情報によると、ウイグル族の大規模な拘束を隠すため、中国の当局は新疆ウイグル自治区の混雑した刑務所および強制収容所から陝西省、内モンゴル自治区、甘粛省、黒竜江省を始めとする省に大勢の被拘留者を移送している。その数は50万人に及ぶという。

2.【強制収容所の位置・規模が明らかに】

東トルキスタン(89県あり)の各県に少なくても5つの再教育センターがあるとされ、科学者の衛星写真やグーグルマップからの調査で既に収容所位置、その規模が明らかになった。AFP通信社のまとめによると、新疆ウイグル自治区内に明らかになったこうした施設が少なくとも181か所存在する。

それぞれ一か所に数千人から数万人が収監されている。例えば、2017年4月にカシュガル疏附県(コナ・シェヘル)で当時建設予定の収容所の入札募集によると、収容所は3.5万平方メートルの広さで、政府出資1.4億元(約29億円)であった。同様にカシュガル・疏勒県巴仁郷(イェニシェヘル・バリン郷、1990年に有名な「バリン郷事件」発生した場所)は一年前に何もなかった畑に新しく建てられた収容所で、1号館~5号館の4階建「教学棟」(70.5m×17.5m)と管理棟があり、それぞれ面積4943.11 ㎡である。

また、アルトゥシュ(クズルス・キルギス自治州)政府ホームページで、2018年3月21日掲示された、「アルトゥシュ市職業技能教育研修サービスセンター建設項目の環境への影響報告表に対する審査意見」によると、当教育センターは、9.6万㎡規模(東京ドーム2個分の広さ)、政府投資3億5000万元(約60億円)で、収監者部屋(7.6万㎡)、管理用部屋(1.1万㎡)、武装警察用部屋(8.5千㎡)、有刺鉄線のフェンス付き障壁1292m、医療室1200㎡、8460人分の⾷事を作る厨房などから構成されている。名前は技能教育研修センターだが、武装警察、監視塔完備した、8000人が収容できる強制収容所である。

最近、さらに規模が大きい収容施設の実態が明らかになった。ウルムチ市達坂城区に位置する「ウルムチ職業技能教育研修センター」(東京ドームの約12倍)、建築面積13万㎡であった。この収容施設には収容ビル(監獄)が8棟あるほか、留置センタービル1棟、警察備勤ビルが8棟、警察総合ビル1棟、病院棟、レストラン棟、物資倉庫棟、武装警察宿舎2棟、監視塔などがある。推測では約1万人の収監者を収容できるという。そのほか、カラマイ市に地上5メートル、地下40メートルの地下収容所が建設されたことが明らかになった。この秘密の地下収容所には少なくとも1万人を収容する予定だという。

これらの収容施設は、新たな政府投資で建設され、調査で分かったものだが、収監者数があまりにも多いため、入りきれない人たちは、臨時収容所して使っている学校(廃止されたウイグル小中学校)、党校(共産党学校)、専門学校、病院、体育館、倉庫、まだ特定できていない地下施設など様々な施設に収監され、すし詰め状態にあるという。また、ベッドが足りないため、昼と夜の交代制で教育される人と寝る人を入れ替えているという。

AFP は2018年10月24日、中国政府の公開文書を基に収容施設の運営実態に迫ったベン・ドゥーリー記者の記事を北京発で配信した。AFPのまとめによると、新疆ウイグル自治区内にはこうした施設が少なくとも181 か所存在する。センターの建設や運営には多大な費用がかかることから、2017年には自治区全体で司法当局の支出が爆発的に増えている。AFPの試算によれば、当初予算の少なくとも577%増に相当する30億元(約480 億円)近くが投じられたもようだ。

中国政府はこれらの施設を「職業訓練センター」と言い張っている。しかし、その嘘が次の証拠で覆されたのである。自治区南西部ホータン地区のある地方政府でこうした施設を管轄する部署は、今年、数度にわたって次のような物品を調達していた。警棒2768本、電気棒550本、手錠1367個、それに催涙スプレー2792缶。いずれも、教育と関係があるようにはとても思えない品目だ。AFPがこうした入札や予算関係の文書、業務報告書など、公に入手できる中国の政府文書1500点以上を検証したところ、施設は学校どころか刑務所のように運営されていることが分かったのである。

3.【収監者及び関係者の証言】

収容所で8か月収監された経験があり、カザフスタン政府の働きかけで釈放されたカザフスタン国籍のウメル・ベカリ氏の証言によれば、彼はピチャンにある両親を訪ねて行ったとき、身柄を拘束され、危険分子として「カラマイ市技術研修センター」という収容所に送られた。

この収容所には当時約1000人が収容され、8割がウイグル人、2割がカザフ人だった。環境条件が大変悪く、狭い一室に20人以上がすし詰め状態で寝泊まりしていた。⾷事も、トイレも同室で済ませたという。毎日早朝から夜遅くまで中国語でプロパガンダ歌謡を歌わせ、共産党の政治思想、宗教転化(非イスラム化)、民族としてのアイデンティティを破壊するための「洗脳教育」が行われ、その日のテストで不合格なった者や少しでも不満を表した人は厳しく罰せられる(⾷事与えず、手足が絞られた状態でヘッドホンより大音量を流し睡眠できないようにする)という。イスラム教徒の禁物である酒や豚肉を強要されているとの証言もある。

また、中国の強制収容所で働いていて、カザフスタンへ不法入国した罪で逮捕されたサイラグル・サウットバイ(41)が法廷で、中国が存在を否定してきた「再教育キャンプ」について証言した。証言によると、彼女が働いた「キャンプには2500人ほどの収監者がいて、そこは一般に政治キャンプと呼ばれるが、実際は山区の刑務所だった」という。カザフスタン政府は中国からの送還要求を押し切って、サイラグルを無罪釈放し、カザフスタンにいる家族の元に返した。

被拘束者の1人だったウイグル人のミリグル・トゥルスン(29)氏は、2015年から2017年にかけて3度投獄された際に拷問を受けたことを証言した。 2015年、家族に会うために中国を訪れたトゥルスン氏はすぐに拘束され、幼い子どもたちと引き離された。3ヶ月後に一時釈放された時、三つ子の1人の不自然死を目にし、他の2人は健康に問題を抱えていた。子どもたちは手術を受けたとトゥルスン氏は話す。

トゥルスン氏が繰り返し3度も拘束され、それぞれ異なる収容所・刑務所に収監された。トゥルスン氏は3度目の拘束をされた時、60名の女性たちとともに、窮屈で息のつまるような刑務所の監房に3ヶ月間収容された。そこでは睡眠は交代でしか取れず、監視カメラの前でトイレを使用することを余儀なくされ、中国共産党を称える歌を歌わなければならない。トゥルスン氏や他の被収容者たちには、服用すると気絶する錠剤や、女性によっては出血したり生理がなくなったりするような白い液体など、得体の知れない薬が強制的に投与された(その他の報道でも明らかになったが、収容所に入れられた全ての女性は強制的に「不妊化」されているのである)。同じ監房にいた9名の女性が、3ヶ月の間に亡くなったという。

トゥルスン氏はある日、部屋に連れて行かれ、高い椅子に座らされた。両方の手足は固定された。「当局の職員たちはヘルメットのようなものを私の頭の上に乗せました。感電させられるたびに全身が激しく震え、血管に痛みを覚えました」とトゥルスン氏が語った。「それ以外のことは覚えていません。口から白い泡が出てきて、意識が薄れていきました。耳に入ってきた最後の言葉は、おまえがウイグル人であることが罪なのだ、というものでした」。

トゥルスン氏は子供がエジプト国籍であったため、ようやく釈放された。トゥルスン氏は子どもたちを連れてエジプトに行き、その後アメリカ政府の保護を受け、2018年9月に渡米した。その他、在日留学生の証言として、2018年7月19日、NHK-BS1 テレビチャンネルで放送した国際報道番組「中国でウイグル族大量拘束 今何が?」で、そして、2018年11月28日、2019年7月12日のNHK 特集で詳細に報じられた。

4.【収容所で不明の病気が蔓延】

ウイグル自治区政府衛生局の業績とした記事(ホームページで発表されその後削除された)によると、ホータン地区1市、7県の収容所で不明の「伝染病が蔓延」したため、2017年7月9日から8月3日の間に自治区の調査チームを派遣し調査に行った結果、「肺結核」だったということで、558人を病院に搬送・隔離したという。しかし、これらの患者が本当に肺結核なのか、その後どうなったのかは一切明らかにされておらず、政府のよる隠ぺい・情報封鎖が行われたことが明らかである。

5.【収容所から死者が続出】

これまでの報道で各収容所から続々死者が出ていて、一部の老人遺体以外は家族に返されず、家族に会わせることもなく、新しく設けられた一般人が入ることのできない遺体処理・安置所で焼却処分されていると思われる(ウイグル人の民族習慣では亡くなった人に葬儀を行い、故人を専用墓地に埋葬する)。臓器売買のため、臓器が抜き取られた痕跡のある遺体もあったという情報がある。そして、それを裏付ける写真もあった。

空港では「人体器官運送通路」、「人体寄付、移植器官航空運送保障プロセス」標識の専用通路やスペースが用意され、国家ぐるみで人の臓器を強盗していることを示す徹底的証拠である。この内容はThe Epoch Times でも報じられた。

在日ウイグル人一人の証言によると、彼女の弟(24)が昨年5月に収容所で亡くなり、遺体を家族に返さずに当局の監視下で直接処理されたそうだ。死因は何なのか、遺体はどこに、どういう方法で処理されたかなどの情報は一切聞かされていない。電話に答えた親族は「党のケアの元で葬送した、さようなら」と言い他に何も言えなかったという。

6.【ウイグル人口密集地に火葬場】

そして、もっとも不思議なことは、中国当局はイスラム教を信仰するウイグル人が95%以上を占める県、町、村に急ピッチで数多くの火葬場建設を進めている。そして、一般人月給の数倍の賃金で人員(もちろん漢民族)を募集している。今後ウイグル人の死体を火葬するつもりなのかと思うだけでも鳥肌が立つほど恐ろしい。中国政府は一体何をしようとしているのか。これらは「ナチス強制収容所の再現」の予兆とも言えるだろう。

7.【家に残された子供は孤児園に】

また、深刻な問題になっているのは、両親が拘束され、家に残された大勢の幼い子供たちが孤児園に入れられ、ウイグル人のアイデンティティーを無くす漢化教育が行われている。「両親は政治的な問題を抱えているため、子供は通常の子供と一緒に学校に通うことが禁じられている」という。2017 年10 月、南新疆のある孤児院の職員はインタビューに応じ次のように語っている。

「両親が再教育施設収監のために孤児となった生後6 カ月から12 歳までのウイグル人の子ども達を預かっているが、突如として増えた子ども達であふれかえり、仔牛の群れを小屋に入れて飼育しているような状態だ」「福祉が追いつかず、週に一度だけ肉を使った⾷事を出せ、それ以外は基本的におかゆだけだ」「施設は厳重に制限され、外部者が施設内に入れない」。

BBC は公表されている文書と在外家族への取材数十件から、新疆の子どもたちに何が起きているのかを示す、これまでで最も総合的な証拠を入手したと2019 年7 月5 日報じた。中国当局は子どもたちを家族、信仰、言葉から意図的に引き離しているという。記録によると、1 つの町だけで子ども400 人以上の親が、1 人ではなく2 人とも収容所か刑務所に強制収容されていた。

示したデータによると、中国全国で幼稚園入園率8%に対し、新疆では82%、ウイグル密集地域では148%だったという。ウイグル族が最も集中して暮らしている新疆の南部だけでも、当局は幼稚園の建設と改良に12 億ドル(約1294億円)を費やしている。

若い妻のみ残された家には、漢民族の男性が世話役で寝泊まりしているとの情報もある。

      ウイグル女性
       ウイグル女性

8.【アメリカ政府の見解】

アメリカのペンス副大統領は2018 年7 月26 日、首都ワシントンで講演し「中国政府は、数十万人、もしくは数百万人の規模でイスラム教徒のウイグル族を再教育施設という場所に収容している。宗教の信仰と文化的な帰属意識を失わせようとしている」と述べて非難したことを、NHK が昨年7 月27 日朝のTV 番組で伝えた。さらに、7月26日ウイグルにおける収容所問題に関して、アメリカ議会で初めてとなる公聴会が開かれた。

昨年に大統領選に候補者となった上院議員・議長のマルコ・ルビオ氏がこの公聴会を招集した。家族20人以上が拘束され、行方不明となったことをアメリカ ラジオ・フリー・アジアのアナウンサー・記者であるグリチェヒラ・ホジャ、アメリカ国籍のウイグル人)が証言した。また、アメリカ駐国連経済社会理事会大使のケリー・カリー氏が「2017 年4月から、習近平指導下の中国当局がウイグル人に対する弾圧程度は「人を驚かす、ショッキングなものだ」、文化大革命がエスカレートした時期とも比べることができないほど酷いのだ。男子髭の禁止、女性の公衆場でのベール着用禁止、そして短いズボンを着ること、喫煙、お酒を飲むこと、豚肉を⾷べることを拒むことを犯罪と見なし、政府系公式テレビを見ることを拒むことさえ罪に問われている」と述べた。

2019 年7 月18 日に行われた第2 回宗教の自由に関する閣僚会議において、アメリカのペンス副大統領は次のように述べた。「新疆ウイグル自治区ではウイグル人を含む100 万人以上の中国人イスラム教徒が24 時間体制で洗脳に耐え、強制収容所に入れられています。キャンプの生存者たちは、彼らの体験を、ウイグル文化を抑圧し、イスラム信仰を根絶しようとする中国政府の意図的な試みだ」。また、同会議で、アメリカのポンペイオ国務長官も、「中国は現代において最悪とも言える人権危機がまかり通っている国で、間違いなく世紀の汚点だ」と指摘した。

ポンペイオ国務長官は8 月6日、中西部カンザス州の大学で行った演説でこの問題に言及し、「中国は100 万人のウイグル族を強制収容所で洗脳し、文化や信仰を捨てさせようとしている。中国は教育のためだと主張し、人権を保護していると言うが、真実からかけ離れている」と非難した。そのうえで、「アメリカはこの問題を解決し、ウイグル族を自由にするため、全力を尽くしたい」と述べ、今月(2019年9 月)、ニューヨークで開かれる国連総会の場でこの問題を提起し、各国と連携して中国に解決を促す考えを示した。アメリカ国務省報道官からも強力な非難があった。

2019 年9 月11 日に、米国上院はマルコ・ルビオ上院議員とボブ・メネンデス上院議員によって提出された超党派法案である「2019 年のウイグル人権政策法」が可決された。ルビオ上院議員は次のように述べた。「100 万人以上のウイグル人の『政治的再教育』収容所への収容を含む、中国政府と共産党による、新疆における組織的かつ悪質な人権侵害および人道に対する犯罪に対し、米国が、中国に責任を負わせることは、長い間延期されました。」、「今日、上院がこの重要な法案を可決するために行動を起こしたことを嬉しく思います」。

彼はまた、下院がこの法案を速やかに可決し、大統領の机に送るよう促した。ナチス式経験しているとも言える「強制収容所」は、ウイグル民族数千年の歴史の中で経験している最も酷く、ウイグル人の言語、文化のみならず、民族が絶滅する危機に直面している重大な事件であり、中国共産党・習近平政権による国家犯罪である。

2019 年7 月10 日、イギリスや日本など国連人権理事会加盟の22 カ国は、中国・新疆(東トルキスタン)におけるウイグル族の大規模な勾留と収容施設で行われている中国政府の残虐な行為を非難する書簡をジュネーブの国連人権理事会に提出した。その上で中国政府に対し、国連や独立した国際組織の査察団へ、「新疆への実質的なアクセスを認める」よう強く促している。

署名した国は、イギリスと日本のほか、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、エストニア、フィンランド、フランス、ドイツ、アイスランド、アイルランド、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイスの22 か国。

しかし、7 月12 日、ロシアや北朝鮮、シリア、ミャンマーなど合計37 ヵ国の人権を著しく侵害する国々、そして、中国と友好的な関係を育む国々及び中国と取引する国々が、人権に関する実在しない中国の所謂「偉業」を称え、ウイグル族やその他のムスリムを収容施設に勾留する行為は「分離主義」と「テロ」と戦う上で必要であったと指摘する、恥ずべき、不適切な書簡を同じく人権理事会に提出した。

署名したのは、「ロシア、パキスタン、サウジアラビア、エジプト、キューバ、アルジェリア、アラブ首長国連邦、カタール、ナイジェリア、アンゴラ、トーゴ、タジキスタン、フィリピン、ベラルーシ、ジンバブエ、オマーン、ベネズエラ、シリア、ミャンマー、そして、北朝鮮、シリア、ベネズエラなど、人権の侵害をし続け恥ずべき枢軸国及びその他の複数の国々」。一部の国々は、この書簡に署名することで、恥ずべき国々としてこの先何年も記憶されることになると恐らく理解しているだろう。

第三章 ウイグル人社会各界のエリートも収容所に

2017 年から大々的に大に行われるようになった思想改造目的の強制収容施設での不当な拘束が今も続いている。そしてウイグル人社会に何らかの影響を持つ著名人、教育界のエリートたち、医師、著名なイスラム学者、人気のスポーツ選手、音楽家、経済界で成功した経営者が続々と強制収容所に入れられている。中国はこの収容所のことを「職業訓練施設、学校」と言い張っているが、以下に例として名前を挙げる人たちは、高度の知識人であり、職業訓練なんかは必要ないはずである。以下には、代表的な例を挙げる。(ここで挙げた例はメディアなどで公開された情報のみであって、氷山の一角にすぎない。)

1.【教育界】

1)タシポラット・ティップ(60) 新疆大学大学学長

ティップ教授は2017 年5 月に、学会参加のためドイツへ向かう途中、北京空港で当局に拘束され、強制収容所に入れられ、2018 年9 月に2 年間の執行猶予付きの「死刑」判決が言い渡された。ティップ氏は、新疆大学を卒業後、1992 年に東京理科大学で理学博士号を取得。1996年から新疆大学の副学長、2010年から2017年まで同大学学長、党副書記と務めていた。研究プロジェクトの成果から中国教育省に賞を与えられたことも多数あり、新疆では著名な学者だった。

2)ハリムラット・グプル(59) 新疆医科大学の元学長

グプル氏は2017 年に新疆医科大学の学長から自治区⾷品医薬品監督庁長ポストに移動させられた後間もなく、「両面人」として拘束されていたが、2018 年9 月に2 年間の執行猶予付きの「死刑」判決が言い渡された。「ウイグルの分裂独立思想を持った、ウイグルでイスラム国を作ろうとした」との罪名だった。彼は中国伝統医療を学ぶ上海中医薬大学を卒業し、1993 年ロシアのサンクトペテルブルク医科大学で博士号を取得。中国全国最優秀研究者の1人に選ばれるなど、中国全⼟でも名を知られる有名教授だった。医科大学で彼はウイグル伝統医学の継承にも力を注ぎ、民族医学教育ではウイグル語による授業をずっと続けてきた。ハリムラット氏は, 1998 年から新疆医科大学の副学長、2008 年から2017 年まで同大学学長、党副書記と務めていた。上記両大学ホームページの歴任学長リストから、新疆大学元学長タシポラット氏と新疆医科大学の元学長 ハリムラット氏の名前が消されている。これは中国が歴史・事実を平気で消すまたは変えてしまうことの証拠でもある。

2018 年9 月26 日と10 月4 日、次々とラジオ・フリー・アジアから驚く内容の報道があった。なんと、新疆医科大学元学長のハリムラット・グプル氏と新疆大学学長タシポラット・ティップに2 年間の執行猶予付きの「死刑」判決が言い渡されたと、ウイグル現地からの情報として伝えた。「地位を利用して反政府活動を行い、分裂主義を実現しようとした」との罪名であった。この二人は2018 年2月ごろに、「両面人」として強制収容所に入れられていた。現在、この二人は処刑の危機に直面していて、複数の人権団体が今年9月中旬から死刑執行停止を求める活動を展開している。

3)自治区教育庁の庁長  サッタル・サウット

2017 年、「重大な規律違反」で拘束され、強制収容施設に送られた。サッタル氏が任期中に編纂したウイグル語教材は、自治区内で教科書として使われていた。2018 年9 月26 日ラジオ・フリー・アジアから驚く内容の報道があった。なんと、サッタル・サウットに「死刑」判決と2 年間の執行猶予が言い渡されたと、ウイグル現地からの情報として伝えた。

4)自治区政府党委員会元秘書官、教育庁副長官、新疆新聞社 社長を務めたアリムジャン・メメットイミン

5)ウイグル自治区社会科学院副院長や新疆教育出版社 社長アブドゥラザク・サイム(61)

上記三名の方はウイグル語の教科書の編集、出版にかかわる人物であった。そのウイグル語教材は、自治区内で教科書として使われていたが、それらが「文学、歴史、道徳分野には、民族分離を煽る内容が含まれており、それを12 年間も現場で使ったため大勢の若者が深刻な洗脳を受けた」と糾弾され、ほぼ同時期に収容施設に送られたのである。

6)新疆師範大学教授  アブドゥカディリ・ジャラリディン(54)

知名度の高いウイグル文学者で新疆師範大学教授でもあるアブドゥカディリ・ジャラリディンは今年1 月にウルムチ市国家安全局に拘束された。アブドゥカディリはカシュガル師範学院を卒業後、ウイグル文学者の道を歩んだ。彼は、石川県に数カ月滞在したことがあり、その体験を記した本の一部がウイグル語教科書に引用された。ウルムチ市の中で最大級と言われている収容施設に収監されているとされる。

7)新疆大学教授  ラヒレ・ダウット(52)

ウイグル文化研究の先駆者で新疆大学人類学研究所教授、博士であるラヒレ・ダウットが、2017 年12 月北京で消息不明となったとニューヨークタイムズ電子版が8 月10 日に報道した。ダウット氏の家族は、黙っていることで再教育施設、拘留施設から解放されないことが分かったため、ダウット氏が消えてから8 か月後の今、これを話すことを決めたと語ったという。ダウット教授は、日本人研究者の菅原純と共著で中央ユーラシアにおけるイスラム聖堂に関する研究をテーマにした、「マザール、MAZAR」という本を出版していた。

2.【宗教界】

1)著名なウイグル人イスラム学者  ムハンマド・サリヒ)

著名なウイグル人イスラム学者で、『クルアーン』のウイグル語訳者として名を知られる82 歳のムハンマド・サリヒ師が17 年12 月中旬、中国新疆ウイグル自治区の区都ウルムチの自宅から突然何者かに連行された。彼は中国共産党の強制収容施設に収監され、約40 日後の18 年1 月24日に死亡した。

2)全国イスラム協会副主席、ウイグル自治区政協の副主席、ホータンイスラム協会主席、

ホータンモスクのイマム  アブドレティプ・アブドレヒム・ダモッラ

2017 年に3 年刑で刑務所に入れられた。

3)カシュガル・トックズタシモスクのイマム  アブリミット・ダモッラ(81)

アブリミット・ダモッラは自宅から突然連行され、収容所に収監された2カ月後の昨年6 月に死亡した。彼は80 年代に新疆ウイグル自治区で初めて寄宿舎付きの私立学校「カシュガル語学・技術専門学校」を開校したベテラン教育家でもある。彼は学校にウイグル語で英語、中国語、アラビア語、トルコ語を教えるクラスと、看護師・歯科医師を育成するコースを設置。全日制だけでなく夜間制の学生も受け入れ、経済的に恵まれない人も教育を受けられるようにした。付属病院も開設し貧しい者への医療費免除など慈善事業を行って人々の支持を集めたが、2000 年頃に中国当局が施設を強制的に封鎖していた。アメリカの短波ラジオ放送「ラジオ・フリー・アジア(RFA)」の報道によると、アブリミットは身柄拘束から2 カ月後の昨年6 月に死亡した。死因は知らされず、葬儀は当局の厳重な監視のもと、弟子たち、周りの住民の参加が許されず家族だけで行われたという。

4)ケリヤ県政協副主席、県メインモスクのイマム イミン・ダモッラ

2017 年5 月に18 年の実刑判決で刑務所に監禁さられた。罪は2016 のメッカーへのハッジ(大巡礼)で「ウイグル分裂意識のある」人にハッジ代行費を渡したことであった。

5)ニルカ県  イスラム学者  アブドレシット・ハジム(65)

アブドレシット氏は強制収容所に監禁されてから9 か月間たった今年の6月5 日に、収容所内で死亡し、頭部分が白い布で覆われた遺体が家族に返された。しかし、家族が遺体の頭・体部分を見ることも許されず、死因が不明のまま、警察の厳重な監視下で埋葬されていたことがRFA の取材で明らかになった。

6)ホータン  イスラム学者  アブドルエヘッド・メフスム(87)

2017 年11 月拘束され、収容施設で死亡していたことが今年5 月にイスタンブールに住んでいる親戚の調べで分かった。彼は7 人の弟子にイスラム知識を教授したことが拘束の原因だったという。

3.【スポーツ界】

人気のサッカー選手エリパン・ヘズムジャン(19)

人気のあったウイグル人サッカー選手エリパン・ヘズムジャンの失踪は、漢人の熱烈なファンたちがソーシャルメディア上で告発して発覚した。今年19 歳の彼は15 歳から中国のサッカーチームでプレーをし、失踪前は中国スーパーリーグの江蘇省チームに所属していた。今年2 月末頃に里帰りしたが、3 月に南京で行われた試合に姿がなかったことを心配する書き込みが相次いだ。RFA は4 月、彼の地元ドルビリジン県へ電話取材をし、同県警察署職員の証言で2 月頃に強制収容所に送られたことが判明した。所属チームの主戦力として1~2 月にかけて、スペインやアラブ首長国連邦で試合に出ていたが、「外国に行ったこと」を理由に、県中心部から約10 キロ離れたトゥルグン村の強制収容施設に送られたという。そこにはウイグル人約1000 人が収容されている。

4.【芸能界】

1)民謡歌手  アブドゥレヒム・ヘイット(56)

ウイグル人の幅広い年齢層に愛されている民謡歌手でドゥッタル奏者(ドゥッタル王)のアブドゥレヒム・ヘイットは、2017 年4月に公安警察に連行されてから行方不明になり、その後収容所で死亡したとの情報があった。これに関連しトルコ外務省は2018 年2月9日、報道官声明を発表し、中国は組織的なウイグル族の同化政策を行っているとして人道上の「大きな恥だ」と批判していた。しかし、中国国営メディアは11 日に、ヘイット氏が「健康状態は良い」と話す映像を公開、声明に反論したのである。中国当局による映像公開を受け、フィンランド在住のウイグル人活動家ムラット・ハリ・ウイグルさんは12 日、# Me Too Uyghur を用いたキャンペーンを立ち上げた。ハリさんはAFP に対し、「中国当局はヘイット氏が生きている証拠だとして映像を公開した。ではわれわれは知りたい、数百万人のウイグル人たちはどこにいるのか」と語っていた。アブドゥレヒムは北京の中央民族歌舞団や新疆ウイグル自治区歌舞団で活躍し、数多くのアルバムも発表した。ウイグルの民族文化に誇りを持ち、前を向いて生きていこうと呼びかけるメッセージ性の高い曲が多いこと、特にウイグル人に広く知られる歌謡「お父さんたち」の歌詞が問題視されたという。

2)ポップス歌手  アブラジャン・アユップ(34)

若くハンサムなポップス歌手も収監されている。若い女性を中心に熱狂的人気を誇るアブラジャン・アユップは、「ウイグルのジャスティン・ビーバー」と欧米誌に紹介されたこともある。ウイグル語のみならず英語や中国語でも歌っていたから漢人にも人気だった。今年2 月に上海でコンサートを行った2 日後、ウルムチで拘束された。昨年マレーシアを訪問したことや、民族や故郷への愛を歌っていたことなどが原因とささやかれている。

5.【メディア関連】

1)ミスラニン・ドットコムの創設者  アバベキリ・ムフタル

インターネットのウイグル語サイトも一昨年から昨年にかけて続々と閉鎖され、運営者がことごとく拘束された。また、同サイト管理人トゥルスンジャン・メメットも行方不明になっている。トゥルスンジャンの父親はRFA の取材に応えて、「自宅から6 人の公安に連れ去られ、どこに居るかさえ分からない」と証言した。

2)バクダシ創設者 アクバル・エゼッド

3)ボズキルの創設者で自治区教育庁職員 アデル・リシット

4)テレビ番組の脚本家として知られるオマルジャン・ヘセン

5) 新疆人民ラジオ局記者で新疆教育出版社の教科書編集者でもあったジャーナリストのヤルクン・ルーズ (52)も行方不明になっている。最近の情報では、17年刑で刑務所に入れられたという。2018 年9 月25 日ラジオ・フリー・アジアから驚く内容の報道があった。ヤルクン・ルーズ氏に「終身刑」が言い渡されたと、ウイグル現地からの情報として伝えた。

ウイグル語書籍は粛清のため書店や一般家庭から没収された。新疆ウイグル自治区文学芸術連合の元会長で、詩人のイミン・アフメディ は昨年6 月、RFA の取材に対し「過去に出版されたウイグル人作家の著作が再検査されている」と語った。ウイグル人に愛読され、現代ウイグル文学を代表する小説であるアブドゥレヒム・オトキュル『目覚めた大地』や『足跡』、ゾルドゥン・サビリ『母なる故郷』なども規制の対象になった。

6.【経済界】

1)イリ・カザフ自治州  慈善家・不動産開発商  ヌルタイ・アジ

China Aid がイリ・カザフ自治州及びカザフスタン人の商人から得た情報によると、有名な慈善事業、不動産開発商のヌルタイ・アジが昨年、20 年の刑で刑務所に送られたという。ヌルタイ氏はヌルタイ氏個人の全額寄付で孤児、貧しい子供たちのための、全寮制の寄宿学校「努尔塔依阿吉学校」を建設し、これまでに多くの学生を支援していた。China Aid の情報では、ヌルタイ氏と一緒に10 数名のウイグル、カザフ商人が逮捕されたという。ウイグルの他の地域でも銀行に一定額(100 万~数100 万元)以上の貯金がある人たちも次々と拘束されている。

2017 年5 月に、カシュガル地区で最も成功した経営者ウイグル人の以下4 名が「宗教的過激主義」という罪で投獄された

2)カシュガル貿易協会会長 物質運送会社経営者 アブドジェリル・ハジム

3)カシュガルEmin貿易市場オーナー  ゲニ・ハジム

4)カシュガルEziz Diyar 市場オーナー  メメット・トルソン・ハジム

5)カシュガルIbnsina 歯科病院オーナー  イミン・ハジム

以上の4 人いずれにも「ハジム」という名称がついているのは、イスラム聖地のメッカーにハッジに行って来たことを意味する。RFA の電話インタビューに答えた現地の保安員の情報によると、罪は「承認されていない民間の巡礼に行った」、「宗教的過激派の兆しがあった」という。4 人は8 年から18 年の懲役刑を言い渡された。

6)カシュガルKasirホテルのオーナー レストラン経営者 オブルカスム・ハージ(67)

RFA のインタビュー情報によると、彼は2017年12月5日入院していたウルムチ市の病院から公安に連行され、再教育キャンプ(強制収容施設)に送られたそうだが、拘束理由や監禁場所がいまだに不明。

7.【官僚・公安関係者】

1)ウイグル自治区林業庁長 エズズ・ケユム

2)ホータン地区公安局副局長 ニジャティ・アウドン

3)ホータン地区公安局元副局長 エリ・イミン

4)ウイグル自治区特捜部ホータン支部隊長 アブドカデル・アブラ

5)ホータン市公安局副書記 政委 ヤリクン・アブドラザク

6)カシュガルカラカシ県公安局元副書記 政委 アバベキリ・イリ

7)ホータン地区公安局国保支部課長級捜査員 モハタル・トスン

らが「重大な規律違反」で拘束され、最近の状況は不明である。

8)ウイグル自治区チャルチャン県公安局政治委員  アリフ・トルソン

8月18日の現地新聞が、アリフ氏が「テロリスト、3種勢力と協力し、庇った」とし、拘束されたことを報じた。

9)ウルムチ市公安局元副局長 カディル・メメット

ウルムチ市公安局現役副局長  ジュレット・イブラヒム

最近、2019年8月と9月に、ウイグル弾圧・厳打で冷酷無情な悪人と知られている、ウルムチ市公安局の元副局長カディル・メメット氏と現役副局長のジュレット・イブラヒム氏が相次いで拘束されたことがRFA より報道された。この二人はいずれも、ウイグル人拘束、収容所のことを知りすぎ、一部の内密情報を漏らしたとの疑いで拘束されたと推測されている。

8.【地方の党・政府責任者】

2016 年に元中国共産党チベット自治区委員会の書記で、チベット人の弾圧で手腕を発揮した陳全国が新疆ウイグル自治区の書記に就任してから、権力を誇示する最初の威圧的行動は、ホータン地区基層の97 名幹部への問責・免職処分を実行することだった。陳の指示で組織された共産党幹部らの査察グループが2017 年3 月12 日からホータン地区の各町、村に入り、たった一週間ほどの調べを行ったあと、3 月26 日各種の理由で97 名幹部(ほとんどウイグル人)に一気に免職処分を下した。

処分内容から人権侵害の典型的な例であることがわかる。例えば、ホータン県のブザク郷党支部書記のジェリリ・マイティニヤズは「宗教師の前でタバコを吸うことに躊躇した」理由で懲戒免職された。97 人の懲戒免職理由には、そのほかに、「毎朝の国旗揚の怠慢、揚回数の誤報、住民宅へ走訪・個人情報データの収集を徹底していない」など様々なレッテルがあった。

第四章  “新疆のウイグル自治区”  中国高度な監視下の野外刑務所

1.中国当局はウイグル地域を野外刑務所化

1.1【漢民族の大量移住】

中国内陸から漢民族をウイグル地域に大量移住させるのと同時に、多くの若いウイグル人・未婚女性を労働力として中国内陸の工場などに移送し、ウイグル自治区におけるウイグル人口比率の減少を図っている。他に少数民族までに適用された“計画生育”制度も功を奏して、1949 年に6%だった漢民族人口が、2010 年には40.1%に達している。「新疆軍区」数十万軍人とその家族、300 万人以上とされる「新疆生産建設兵団」の人口はこれに含まれない。漢民族がこの地に大挙進出してきて、経済発展の恩恵を独占した結果でウイグル族との格差が広がる一方である。中国当局によりウイグル人に対して差別的政策が実施され、憲法で定めたウイグル人固有の言語、文化的・宗教的権利も侵害されてきた。

1.2【7・5 ウルムチ虐殺】

そんな中、2009年6月に中国広東省の玩具工場で労働者として勤務しているウイグル人が中国人に襲撃され多数が殺傷された事件に対する中国政府の対応への不満がきっかけに、ウイグル人の怒りがさらに高まった。同年7月5日にウルムチ市でウイグル学生らによる大規模なデモが発生した。平和的な抗議行動は、中国当局の軍、によって、過剰な武力行使を通して残虐に制圧され、数千人がウルムチの町で殺害され(中国当局の発表では197人死亡)、殆どのデモ参加者が逮捕された。これは「7・5 ウルムチ騒乱」「7・5 ウルムチ虐殺」と呼ばれる。

1.3【悪漢・陳全国】

2009 年以降、中国共産党当局によるウイグル人の監視はさらに強まった。特に、元中国共産党チベット自治区委員会の書記で、チベット人の弾圧で手腕を発揮した陳全国が、2016年に新疆ウイグル自治区の書記に就任してから、ウイグル人への監視・弾圧が特段に強まった。新疆ウイグル自治区は、習近平政権が推進する現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」の戦略的要衝でもあり、そこに完全に監視され・封じ込められた社会を作り上げることが習近平政権の謀略と言えるだろう。陳は、1 年も経たない間に、9 万人を越す治安関係ポストを募集し、ウイグル地域における「監視社会」の完成を手掛け、2017 年1 年間でウイグル自治区の警察の人員が2015 年の6 倍にまで膨れあがった。

ウイグル自治区全地域で、500m間隔で交番が設置され、一つに8~30名の武装警察が配備された。アクト県だけで2017年10月以降、68個の交番を新たに設置したことを現地で当番中の警察がRFA のインタビューで明らかにした。陳全国は、ウイグル全地域で上述した「再教育センター」というナチス式強制収容所や以下で述べる監視社会を作り上げた首謀者・真犯人である。

1.4【最先端の監視技術の実験場】

中国国内には昨年秋の時点で監視カメラが1億7000万台設置されており、今後3年間でさらに4億台が追加されると推定されている。監視カメラの多くには人工知能(AI)が搭載され、顔認証技術などを備えている。その「最先端の監視技術を試行する実験場」となったのは新疆ウイグル自治区である。中国政府は2017 年第1 四半期(1~3月)にウイグル自治区で10億ドル(約1130億円)以上に相当するセキュリティー関連の投資計画を発表したとウォール・ストリート・ジャーナル紙が明らかにした。

国際人権組織ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は明らかにした情報によると、中国当局は、問題を起こす危険のある人物を特定し、先んじて拘束するため、新疆ウイグル自治区に大量のデータを駆使した監視プラットフォームを配備している。この「予測による治安維持」プラットフォームについて、当局が監視カメラの映像や、通話・旅行記録、宗教的志向などの個人情報を統合・分析し、危険人物を特定するためのものだと説明する。カシュガル市だけで今年3月、5100万ドル(約55億円)以上を投じて、統合データプラットフォームを含む監視システムを購入・設置した。

この監視カメラシステムは、瞬時にして人の顔と歩き方を識別して個人を特定し、データベースと照合して年齢、性別、身長、民族アイデンティティを判定。その上、親族や知人といった人的ネットワークまで割り出すことができるという。米政府は最近、ウイグル監視に関連する中国の企業5社をブラックリストに掲載し、米国の重要技術利用を事実上禁じることを検討していることが分かった。これらの5社は、曠視科技(メグビー)、杭州海康威視数字技術、浙江大華技術、美亜柏科信息と科大訊飛である。米政府は、顔認証機能を持つ杭州海康威視数字技術と浙江大華技術の監視カメラがスパイ活動で使われる可能性についても憂慮しているという。

1.5【政治的信頼度点数表】

ウイグル人の研究者で記者のタヒール・イミン氏は昨年2月、新疆から米国に亡命した。同氏はウルムチに住む友人が6月、当局に拘束されたと話す。定期的な礼拝、パスポートの所持、トルコへの渡航記録が減点の対象となったという。そして「マイナスポイントが70を上回ると、危険人物と見なされ、警察に通報される。警察はこれを受け、拘束した人物を再教育センターに送る」と明かした。

以下の「人口個人情報採集表」は、ウイグル自治区全地域で「危険人物」を割り出すために使われているものである。表の右側に「重要情報」とされた内容は、年齢が(15~55歳)、ウイグル人か、失業者か、パスポート保持者か、毎日礼拝するか、宗教知識があるか、26の“センシティブな”国に行ったことがあるか、海外とのつながりがあるかなどである。また、ウルムチ市の各社区で実際の登記に使われている「常住戸民族語系点数表」によると、各住民一人一人に10カテゴリーで10点ずつ点数付け、ウイグル人の政治的信頼度を評価している。

例えば、この表の1番目のイブライム・イスマイル氏(83)には50点付けられ、「一般注意人物」とされている。ウイグル人であれば10点、パスポート保持者であれば10点、礼拝していれば10点、宗教知識があれば10点、対象の26か国のどれかに行ったことがあれば10点それぞれ引かれ、合計点数は50点となっている。この点数が低いほど「危険人物」とされる。

もし、この方が55歳以下で、海外とのつながりがある人だった場合は、点数が30点(マイナス70点)で、即拘束対象となり、強制収容所に送られることになる。亡命者の証言によると、誰が礼拝しているか、誰が断⾷しているか(イスラム・ラマダンの時期にどの家の人が夜中に起きて明かりをつけているか、職場、学校でお昼ご飯を⾷べていないかなど)を常にチェックするため、町、村、学校で10人を1グループにし、相互監視体制を作っている。知っている情報を隠した人も罰せられるようになっている。また、政府幹部に住民と「親戚(双親)」を作らせ、住民の宗教意識、共産党への忠誠心を調べ、人ひとりに点数をつける任務を与えている。その中で、収容所に入れられた若いウイグル女性がいる家に「親戚」となった漢族男性が寝泊まりするケースもあるという。

1.6【一般家庭に政府幹部が宿泊】

国際人権組織ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)が「ウイグル人家族の家に中国共産党政府職員がホームステイしている」と5月13日に報告を発表した。報告によると、ウイグル人密集地域の一般家庭が近年、政府幹部による定期的な「ホームステイ」の受け入れを強いられている。中国政府による「民族団結」を名目とした厳しい監視が目的とみられ、官製メディアの情報として、当局は2017年に職員100万人を同地農村へ派遣したと伝えている。職員をウイグル人家族と「共に⾷べ、共に住み、共に労働し、共に学習」させるという。

1.7【スマートフォンにスパイウェアを強制装着】

中国にいるウイグル人はまた、2017年4月からスマートフォンにスパイウェア・アプリをインストールすることを強制されている。ラジオ・フリー・アジアの報道によれば、「百姓安全」、「Jinwang」と呼ばれるこのアプリは、政府が市民の携帯デバイスをスキャンし、「テロリストや違法な宗教に関する映像・写真・ファイル類を所持していないか確認する」ためのものだという。これらのアプリをインストールすると微信(Wechat)やSNS「微博(Weibo)」のログ、SIMカード情報、Wi-Fiのログイン情報などがサーバーに送信される。インストールを拒否したり、一度インストールしたアプリを削除したりすると、10日間拘束されることがあるとのこと。

今はすべてのウイグル人が24時間監視され、Wechatなどを通して海外にいる親戚と連絡することも一切できなくなっている。我々海外にいる人たちはウイグルにいる親戚から「連絡しないで」と言われている。公安警察からハラスメントや脅迫を受けていると思われる。

1.8【全車両にGPSを強制装着】

中国当局また、ウイグル地域にあるすべて自動車に対し、中国版全地球測位システム(GPS)「北斗」の端末の設置を義務付けたと米政府系放送局ラジオ・フリー・アジア(RFA)が伝えた。昨年の6月30日までに全車両への「北斗」の端末設置を終える計画となっていた。重機や工事用の車両なども対象となり、端末を設置していない車両は、ガソリンスタンドで給油が拒否されるほか、中古車市場で取引ができない。

1.9【ウイグル人のパスポートを没収】

中国国内でパスポートを持っている全てのウイグル人からパスポートが没収され、観光や留学のため海外に行くことは非常に難しくなった。海外留学のため、新しくパスポートを作ることはできなくなった。両親のことが心配で海外から一時帰国した学生のパスポートも没収されるほか、再教育センターに入れられたケースもある。

1.10【ウイグル人逮捕者数が全国の21%】

中国の人権を監視する国際NGO組織・中国人権擁護(Chinese Human Rights Defenders)は、7月25日にウイグル人逮捕者数を発表した。中国政府が発表した数字によると、2017年に新疆ウイグル自治区で、刑事的罪で逮捕された人数は全国の同じ罪で逮捕された総数の21%を占めたという。新疆人口は中国全国人口のわずか1.5%を占めているにもかかわらずだ。中国人権擁護は、2008~2017年間にウイグル自治区で逮捕された人数の比較調査を行い、2017年1年で227,882人が逮捕されたこと、これは2016年の逮捕者数27,404人の8.3倍だったことを明らかにした。報告では、これは中国当局が「三股勢力」(暴力恐怖主義、民族分裂主義、宗教極端主義)名目の厳打(厳しく取り締まり)運動の結果との認識を示した。

2.中国当局はウイグル住民からDNA など生体データを採集

2.1【検診名目でDNA 採集】

中国国営の新華社通信は2017年11月、衛生当局の統計として、新疆の総人口の9割に相当する約1900万人がこの「検診」を受けたと伝えた。また、中国最大手インターネットポータルサイト「新浪(Sina)」が2017 年11月1日、新疆ウイグル自治区衛生計画生育委員会から入手した情報として、ウイグル自治区は昨年15.85億元投資し、全自治区で1884.48万人、その中、南疆4地区・州(ウイグル密集地域)で912.71万人(100%)の検診を終えたと伝えた。

国際NGO人権組織の「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は、このような大規模な強制収集は国際人権規約を踏みにじるものだと批判した。当局に「全民検診」と呼ばれたこの無料のプロジェクトは、12 歳から65 歳までの住民を対象にDNAや血液のサンプル、指紋、虹彩、血液型などの生体データを集めている。なぜ1000 万人近くのウイグル人から血液サンプルの採集とDNA 検査が必要なのだろうか。最も考えられるのは以下の「臓器狩り」のためである。

臓器移植や造血幹細胞移植では、レシピエント(受取人)自分のDNA、具体的に言えば白血球抗原であるHLA のタイプに合わないものはすべて異物と認識して攻撃を始めてしまうため、HLA の適合性が重要視される。そのためにHLA 検査を行い、ドナーとレシピエントの適合性を読みとることが必要となる。

HLA とは?

赤血球にはA型、B型、AB型、O型などの血液型があり、輸血の際には血液型を一致させないといけないのだ。同様に白血球をはじめとする全身の細胞にはヒト白血球抗原(HLA:Human Leucocyte Antigen)と言われる型があり、移植には患者とドナーのHLA型の一致する割合が関係してくる。HLA型でA座、B座、DR座というのがあり、完全一致から一部一致の優先順位がある。

2.2【臓器狩り】

第一章でも述べたが、これまでの報道で各収容所から続々死者が出ていて、家族に返す・見せることなく、新しく設けられた一般人が入ることのできない遺体処理・安置所で処理されている。臓器売買のため、臓器が抜き取られた痕跡のある遺体もあったという情報がある。以下の写真1.2 はその証拠である。これは観光でウイグルに行った日本人により2018年1月にカシュガル空港で撮られた写真であり、空港では「人体器官運送通路」、「人体寄付、移植器官航空運送保障プロセス」標識の専用通路やスペースが用意され、国家ぐるみで監禁されている人から強制的に臓器を摘出していることを示す徹底的証拠である。

ウイグル出身(東トルキスタン)の在英の元外科医エンヴァー・トフティ氏は、こうした不合理な新疆地区住民のDNA 採取について、中国移植権威で富裕層や外国人移植希望者のための移植用臓器となる「生きた臓器バンク」とし、住民を秘密裏に「ドナー登録」しているのではないかとの推測を述べた。

また、アラブ諸国からの臓器移植希望者は信仰により、豚肉を⾷べない人のドナーを希望する場合がある。トフティ氏は近年、新疆を訪れて、宣伝広告された「ハラール・オーガン(豚肉を⾷べていない人の臓器)」を入手している人が増えていると述べた。中国での不法な臓器移植の実態を調査している中国臓器収奪リサーチセンター(本部・ニューヨーク)によれば、中国の病院で臓器移植の手術を受ける患者の待機時間は平均で1~4週間。最短では数時間で適合臓器が見つかることもあるそうだ』。これは世界の移植医学の常識からは考えられない短さである。ドナー登録制度が確立した世界最大の移植大国であるアメリカでさえ、心臓なら8ヶ月、肝臓なら2年2ヵ月、腎臓では3年1ヵ月の平均待機時間を要する。その上、移植手術に求められる血液型と細胞の組織型の同時一致がみられる割合は、兄弟姉妹の間では4分の1の確率とされるが、非血縁者間では、数百から数万分の1の確率でしか一致しない。ところが、中国に行けば通常、1週間から4週間で適合する臓器が見つかるというのだ。

なぜ中国でのみ、このように世界常識を覆す迅速な移植手術が可能なのか?

中国には、需要があれば直ちにそれに応えられる大量の臓器ストックがあるからだ――としか考えられない。

中国臓器収奪リサーチセンターの調査報告によると、現在中国で行われている臓器移植の数は6~10万件だという。2013年に中国はドナー登録制度を採用し、2015年には死刑囚からの臓器摘出を中止したと発表した。しかし、2017年現在、ドナー登録数はいまだ5500人程度にとどまり、年間6万から10数万件規模で行われている移植手術のための臓器の出所は到底説明できない。中国衛生部(厚生省)の前副部長・黄潔夫氏は2017年7月26日、AP通信のインタビューで、2020年には、中国は米国を抜いて世界一の移植大国になると主張した。堂々と宣言できるほど、「臓器狩り」は国家ぐるみのプロジェクト化されたことである。こうした「中国での強制臓器収奪問題」に関して、2019年6月17日に英国ロンドンで開廷された「中国の強制臓器収奪に関する民衆法廷」で、「中国では違法な臓器の収奪と移植がいまも続いている」との立証であり、「人道に対する犯罪」の“有罪判決”が下された。

参考
中国の臓器狩りは法輪功が最初である。
これは当時の国家主席の江沢民が自らの政権を揺るがす脅威と
みなして迫害を開始したのである。

この江沢民という男は、天安門事件後、再び中国の若者が民主化
に走らないようにこのときから反日教育を始めたのである。
それ以前は日中は日中友好関係にあり、戦前の問題は一切言わな
かったのである。

3.海外在住のウイグル人(留学生、永住者、帰化者)も監視対象に

3.1【在日ウイグル人の被害】

東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)で300万人を超えるウイグル人が「再教育センター」と呼ばれる収容所に収監され、著しく人権被害を受けていることをアメリカ、ヨーロッパ各国のメディア、政府機関、国連などが続々報道し、厳しく非難した。昨年7 月ごろから日本でも報道され始めた。

2018年7月19日、NHK-BS1テレビチャンネルの国際報道番組「中国でウイグル族大量拘束 今何が?」で、中国のウイグル人への弾圧、収容所の実態を報道した。これは日本において、主要メディアとして初めての報道であった。当番組で在日のウイグル人8名が「家族が収容所に送られ、全く連絡がつかず、生きているか死んでいるかもわからない」と証言した。その後の、NHK テレビ及びWeb 特集として何回も報道があり、徐々に日本の諸メディア(テレビ、新聞、ネットニュース)で活発にウイグル弾圧の状況や在日ウイグル人の証言が報道されるようになった。

日本には約2000 名のウイグル人がいるとされていて、多くのウイグル人の家族が同じく中国で被害を受けている。しかし、その多くはウイグルにいる家族、親戚がさらなる被害・弾圧を受けることを恐れて、沈黙しているのが実情である。だが、「今こそ、国で沈黙せざるを得ない同胞に代わって、国外に住む私たちが声を上げるべきときだ」という在日ウイグル人も増えている。上のNHK番組でも紹介されたが、在日ウイグル人人権団体である「日本ウイグル協会」の呼びかけで、7月1日東京の中心繁華街である新宿で大規模なデモが行われた。

これまでに沈黙してきたウイグル人100人以上が参加した。デモでは、「不当な拘束をやめろ」、「強制収容所を閉鎖しろ」、「家族を返せ」、「お父さんを返せ」、「ウイグルに自由を」、「日本人は我々を助けてください」と訴えた。7月7日また六本木、中国大使館前で150人以上のウイグル人によるデモがあった。これほど多くの在日ウイグル人が中国のウイグル人弾圧を訴え、このようなデモに参加したのは初めてであった。

ウルムチ大虐殺事件から10年経った2019年7月5日に、NHK総合テレビは、「ウルムチ大虐殺から10 年」(ニュースウオッチ9)という番組を放送した。また、2019年7月16日に、NHK国際報道「大規模デモ10年追い詰められるウイグル族」で、さらに詳細な報道があった。

その番組で、数名の在日ウイグル人が証言した。

その一人のアフメット・レテプさん(41)は次のように語った。「一昨年の2017年、故郷で暮らす父と弟をはじめ、親族12人が公安当局に拘束された。母親とも去年2月を最後に、連絡が取れなくなった」。そして、その1か月後の3月、今度はアフメットさんの携帯に、突然父親の映像が送られてきた。送り主は「地元公安当局」を名乗る男だった。1年ぶりに見た父親は、いつもかぶっていた伝統の帽子を脱ぎ、イスラム教徒の高齢男性が生やすひげもそり落としていた。

「これは私が知っているお父さんじゃない。全然違う。別人だ」とアフメットさんが涙を流していた。

その後、「地元公安当局」を名乗る男から音声メッセージが携帯に送られてきた。「日本のウイグルの組織に直接参加しないにせよ、状況は把握しているはずだ。我が国の立場に立って協力してくれれば、家族の問題はすぐに解決できる。私の言っている意味が分かりますよね?」。

故郷の家族をいわば人質にして、日本にあるウイグル族の組織の内部情報を流すというスパイ行為に協力するよう要求してきたとアフメットさんは受け止めた。精神的に追い詰められたその時の気持ちを、涙を流しながらこう語っていた。

「断れば家族がさらに迫害を受けることは明らか。でも協力すれば自分自身が人間として許せない」。

家族の身を案じるアフメットさんは、1年以上、受け取った映像やメッセージを公にすることは控えてきた。しかし、沈黙を続けていても、事態は変わらないと考え直し、NHKの取材で公開することにしたという。同じことが在日ウイグル人多くの身におこっていることである。一時帰国して日本に戻ってこられないケースや家族が強制収容所に入れられているだけでなく、収容所で突然亡くなったケースもある。

私たちが把握した情報では、例えば、2年前に娘を連れて一時帰国したお母さん(Mさん)は、パスポートが没収され、母子とも日本に戻れていない。在日ウイグル人Gさんの弟(24)が昨年5月に収容所で亡くなり、遺体を家族に返してくれなかったという。死因は何なのか、遺体はどこに、どういう方法で処理されたかなどの情報は一切聞かされていない。電話に答えた親族は「党のケアの元で葬送した。さようなら。」といっただけで、他に何も言えなかったという。

その他、在日ウイグル人で中国パスポートの有効期限が近づき、中国大使館に更新手続きに行ったところ、中国新疆に帰って現地で更新してくるように言われ、更新できなかった人が何人もいる。その中にパスポートの有効期限が既に切れ、中国に帰ることもできず(中国に帰ると収容所に送られることが明白であるため)、困っているウイグル人がいる。また、日本の大学院を卒業したらウイグルに帰るつもりで、日本で就職活動をやっていなかった人で、中国に帰ることを恐れて、日本に残らざるを得ない人や日本滞在ビザの心配をしている学生も多数いる。

在日ウイグル人(帰化者を含む)の被害状況をまとめると以下のようになる。

  • 日本(海外)にいるウイグル人は中国にいるご家族と連絡が取れなくなっている。
  • 在日ウイグル人でもご家族が収容所に収監された人が多数いる。
  • 在日中国大使館がウイグル人のパスポート更新申請を受け付けなくなっている。
  • 一時帰国者が収容所に入れられたりして日本に戻ってこられなくなっている。
  • 中国にいる家族が人質に取られて、留学生ら自身は帰国やスパイ活動が強要され、「従わないと家族を再教育センターに送る」と脅迫されるケースが増えている。
  • 帰化やビザ申請に必要な書類の中国からの取り寄せができなくなっている。

3.2【海外にいるウイグル人の被害】

中国政府はウイグル弾圧の手を海外まで伸ばしている。例えば、以下のような報道がある。

1. エジプトで中国のウイグル族の拘束・強制送還相次ぐ
2. 海外にいるウイグル人にスパイ活動を強要
3. 親族訪問・一時帰国者のパスポート没収、「再教育センター」へ収監

第五章 中国のウイグル言語への侵害状況

ウイグル語教育  →  「双語」教育  →  漢語のみの教育への転化

→  幼稚園、小・中・高校、大学でのウイグル語使用全面禁止へ

1949年に中国人民解放軍の侵攻により共産党支配下に置かれ、1955 年に設置された新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)の当初は、東トルキスタン・イリ政府と中国共産党の交渉、平和条約の約束通り、それまでに展開されてきたウイグル言語など独自の民族言語による教育が継続された。1950年初頭からは漢語が選択科目として導入されていた。しかし、1960年代に入ると次第に漢語教育が重要視されるようになり、漢語が民族学校において必須科目となる一方、漢語学校に設置されていたウイグル語の選択科目は廃止された。1977年から新疆ウイグル自治区政府は少数民族への漢語教育の強化を政策課題としてさらに強調するようになった。

1982年制定の中華人民共和国憲法では、少数民族言語による教育が保護されることになったが、実際には教育現場における漢語への一元化が推進されていった。1990年代末からは少数民族の漢語習得、主流文化の吸収が強く促されるようになる。2004年に交付された「全面的に双語(バイリンガル)教育を推進することに関する決定」により、ウイグル語の授業のみをウイグル語で行い、その他の科目はすべて漢語で教える「双語教育」に取って代わられることとなった。

2010年からウイグル全地域において幼稚園、小学校一年から「双語教育」が実施されるようになり、中国内陸からウイグル語が知らない漢族教師が大量に投入された。

例えば、2017年4月26ホータン地区・チラ県政府ウェブサイトでの募集によると、人口13万人のこの県だけで1093人の教師を中国内陸から募集している。またホータン地区政府からも中国内陸向けの同様な募集があり、現地一般教師給与の2倍以上の賃金が提示されている。これにより、学校ではウイグル語の授業がほとんど行われなくなり、漢語を習い始めたばかりの子どもたちに、すべての授業を漢語で行うようになった。一方、これまでに長年ウイグル語による授業をやって来たベテランの優秀な教師たちが、漢語水準が満たない理由で「下放」された(教育現場から追い出された)。教育レベル、学生の知力が著しく落ちていった。

この時、ウイグル言語に対する危機を感じた有志の教育者が私立のウイグル語幼稚園、小学校の設立を試みた。現在トルコ在住のアブドワリ・アユップ氏がウイグル語学校設立を仕掛けた一人である。彼は2011年アメリカ留学から帰国したあと、カシュガルでウイグル語学校を立ち上げた。しかし、2013年にアブドワリ氏を含む学校設立に関わった3人(他DilyarObul, Muhemmet Sidik Abdurshit)が、寄付で集まった支援金の「横領罪」で投獄され(明らかに冤罪である)、ウイグル語学校計画が滅ぼされたのである。(その後、アブドワリ氏は治病のためトルクに渡り、現在もウイグル語保護活動を続けている)。

また、中国でウイグル族が直面している現実への理解と問題解決を訴え、当局の政策に批判的な声を上げた知識人、中央民族大学(北京)の著名なウイグル族経済学者、イリハム・トフティ准教授が「国家分裂罪」に問われ、2014年9月23日、無期懲役判決で投獄された。

2016年に元中国共産党チベット自治区委員会の書記で、チベット人の弾圧で手腕を発揮した陳全国が新疆ウイグル自治区の書記に就任してから、ウイグル語の使用禁止、漢語教育のみを実施という重大な人権侵害、同化・民族浄化政策を露骨に展開してきた。これは陳の指示で設置した洗脳のための「再教育センター、強制収容所」や監視社会体制以外のもう一つ謀略である。ウイグル語禁止政策は以下の各地区政府の通知・通達の内容から見取れる。2017年7月5日、ホータン地区政府のホームページに、「ホータン地区双語教育規定5カ条、小中学校双語教育強化」という規定を発表した。

内容は

  • 国家通用言語文字(漢語)を全面普及し、民族言語を付加した双語教育原則を堅持すること
  • 2017年秋学期から小学校入学前の3年で国家通用言語文字教育を徹底し、小学校1年、中学校1年から国家通用言語文字教学を全面実施、2020年には国家通用言語文字教学を全体的に実現すること
  • 漢語教師がウイグル語で研修受けるという間違ったやり方を止めること
  • 教育系統内、学校内でウイグル語文字、スローガン、図画などの使用を断固禁止すること
  • 教育系統の集団活動、公共活動、管理ワークの中でウイグル語の使用を断固禁止すること。

以上の双語教育政策に対して怠慢、不履行、小細工などをした人は、「両面人」として厳重に懲罰される。

そのほか、「ホータン地区学前(入学前)教師8カ条ルール」、「ホータン地区国語教育8カ条規定」などがある。

2017年10月10日、イリ・カザフ自治州イニン県教育局が、自治区教育庁の「少数民族文字教材補選使用に関する通知」を通達し当県において、

  • 全てのウイグル語とカザフ語の「国語」教材の使用を停止すること、学校にすでにある教材は封存すること
  • 国家統編の教材「道徳と法治」、「歴史」教材の少数民族文字に翻訳が終わっていないものを含め、使用を

停止すること

  • 関連学科少数民族文字の教材・補助資料の使用を停止すること
  • この「通知」要求により、各学校が教材・補助教材選択・使用規定に違反してはいけない、問題発覚時はすぐ報告すること

という内容を発表した。

ウイグル語使用禁止と同時にウイグル語教科書、文学・歴史に関係する出版物の焼却が各地で行われた。各地書店(新華書店)では、棚からウイグル語で出版された本が消えた。

第六章 中国のウイグル文化・宗教への侵害状況

ウイグル人は、ユーラシア大陸のほぼ中央に位置し、シルクロードとも言われてきた東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)を中心に暮らす、独自の歴史と文化を持つイスラム教を信仰する人々である。ウイグル人は、8~9世紀に約100年継続した「ウイグル可汗国」、9~13世紀に約300年繁栄した「天山ウイグル王国、天山山脈北麓)」と「カラ・ハン朝、タリム盆地)」、16~17世紀に165年繁栄した「セイディア汗国」(ヤルカンド)などを建国していた。こうした独立のウイグル国家は18世紀から清朝の支配下におかれ、1884年に「新しい領⼟」を意味する「新疆」という名前が付けられた。それでも、ウイグルの反抗が途絶えず1933年と1944年に「東トルキスタン共和国」として独立国家を設立していた。

しかし、1949年に再び中国人民解放軍の侵略により、共産党支配下に置かれ、1955 年に「新疆ウイグル自治区」という名前が付けられた。自治区と称しながら実質的に自治権がない場所となった。ウイグルは、かつて仏教やマニ教も信仰した歴史もあったが、8世紀からはずっとイスラム教を信仰してきた平和を愛する農耕民・遊牧民である。ウイグルは、長い歴史の中でアジア、ヨーロッパ文化も吸収しながら、独自の言語(ウイグル語)や文化・習慣を培って、守ってきたのである。ウイグルは、古代から音楽・踊りを生活の一部として、それを発展させながら、非常に明るく平和に暮らしていた。ウイグルの古典音楽「12ムカム」は歌、ダンス、音楽が一体となったもので、その素晴らしさが認められ、「世界無形文化遺産」に登録されたほどである。ウイグル人は中国で「能歌善舞」(歌も踊りも上手な)民族と呼ばれてきた。

ウイグルは、何千年もの歴史の中で、男性は髭を生やすのと伝統的な帽子をかぶり、女性はベールをかぶるのと肌脚を露出しないようにロングスカートを着るという習慣を作ってきた。しかし、今現在、中国共産党の支配下にある、実際に全く「自治」のないこの「新疆ウイグル自治区」で何が起こっているだろうか。中国でいま、ウイグルアイデンティティーを破壊する重大な人権侵害、同化・民族浄化が行われているのだ。

1.【ウイグル文化への侵害】

1)ウイグルの男性(老人以外)は髭を生やすことが禁止されている。

2)ウイグルの女性はベールやロングスカートを着用することが禁止されている。新疆ウイグル自治区当局は昨年4月1日から、髭や公共の場所での顔などを覆うベールの着用を禁じる新たな法律を発効した。

3)街の中で民族衣装、ワンピースや長めのシャツが強制的にカットされる。これらの写真は、2018年7月13日ウルムチ市内で撮影され、WeChatに投稿されたもの

4)ウイグル学生に中華漢族衣装を着させ、孔子・漢族思想教育を強要されている。

5)伝統的ウイグル歌舞の代わりに中国漢族文化の戏剧(演劇、芝居、劇のこと)を強要されている。ウイグル音楽「12ムカム」が世界無形文化遺産に登録されているなど、ウイグル音楽・舞踊が名であり、ウイグル人は歌も踊りも上手な民族と呼ばれることがあるが、このような文化を漢族文化に置き換えようとしている。

6)ウイグル女性を漢民族の男性と強制結婚させられている。

2.【宗教への侵害】

1)モスクの閉鎖、モスクへ中国旗と監視カメラを設置

2)モスクに政府系監視係の職員を配置

3)18歳以下の全員、学生、教師、職員の礼拝、断⾷など禁止

4)モスクで行われて来たウイグル伝統的葬式に家族以外の人々の参加禁止

5)ウイグル人ボランティアの遺体清浄禁止

6)当局管理下の遺体処理・葬儀場(葬儀サービスセンター)を設立

7)ウイグル人密集地に火葬場建設(イスラム教徒はすべて土葬で行うことになっている。火葬はしない。)

8)新生児にイスラム系の名前を付けることを禁止するほか、一部大人の名前の改名を強要

禁止された名前のリストは、例えば、サイプッラ、サイフディン(50年代から70年代後半まで新疆ウイグル自治区主席となった人の名前)、ナスルッラ、シャムシデンなどごく普通の名前も使用禁止となっている。

9)収容所でウイグル人に豚肉とアルコールを強要(イスラム教徒は豚肉は食べないし、酒も飲まない。)

10)  500年の歴史あるモスクが突然消えた(破壊された)

ホータン・ケリヤ県にある500年の歴史を持つモスク、ヘイティガー・ジャーミーも18 年末に破壊されたことが、カナダの研究者Shawn Zhangにより衛星写真で発見された。

    

  • 詳細を知りたい方は下記のリンクをご覧ください。

中国のウイグル人への弾圧状況についてレポート(第㈡版)

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「ウイグル協会」 → 「ウイグル 東トルキスタン情報-日本ウイグル協会」 → 「資料:カテゴリー」 →

「中国のウイグル人への弾圧状況についてレポート:在日ウイグル人一同, 日本ウイグル協会 – 2019 年9月 27 日」 → 「中国のウイグル人への弾圧状況についてレポート(第二版)(PDFファイル3.8MB)」

グルジャ事件とは?

グルジャ事件はマシュラップの禁止に対する抗議デモから起きました。マシュラップとはウイグル人の地域コミュニティで行なわれる集まりのことです。ある年齢に達してマシュラップに参加するようになったときに、地域社会への参加も意味することになります。青少年がアルコールや麻薬などに走ってしまうことを防ぐ役割も果たしていました。1997年当時、グルジャ周辺では青年らのマシュラップの指導者たちがサッカーリーグを組織し、トーナメント戦による試合を行っていました。しかし、ウイグル人の団結を恐れた公安当局はマシュラップを禁止し、強制的に解散させ、指導者を不当に逮捕したのです。

当局の弾圧に対してウイグル人の若者たち1000人が、1997年の2月5日に抗議のためにデモに参加し、横断幕を掲げ、宗教的なスローガンを叫び行進しました。公安警察、武装警察はデモ隊に対して発砲し鎮圧しました。そしてデモ参加者をスタジアムに追いやり、厳冬下で零下20度の状況で放水をして多くのウイグル人を凍死させました。当時、拘束者があまりにも多いためイリ地区の留置所はすべて一杯になったといいます。グルジャ事件の後も、イリ地区では事件に関与した疑いがあるとして数万人が逮捕され、刑務所内での拷問により多くのウイグル人が亡くなりました。

虐殺事件から14年を経た今でも、監獄で不当に拘留されている人がいます。2009年7月のウルムチ事件は外国人の撮った映像があるため、中国政府の公式発表が事実でないことが分かりましたが、グルジャ事件については実像がなかなか表に出てきませんでした。しかしこの多数の犠牲者を出したグルジャ事件は記憶され、中国政府に対する抗議行動が、在外ウイグル人組織によって毎年行われてきました。