南京大虐殺の嘘を暴く! Part 2

【上智大学名誉教授 渡部昇一先生の講演より】

私は南京大虐殺はないとは言えないけれど、あり得なかったと言うことを言い続けてきたわけです。 何故かと言いますと、私は南京が落ちたとき小学生でありまして、私のすぐ隣の家は石川さんといいましてね。 戦争始まると戦地に行ったんですけども、上等兵でお帰りになりました。

その先の先の家の長沢さんという家はね、軍曹でお帰りになったんです。 だから始まってから1年から1年半ぐらい行きますと、一度兵隊さんを帰したんですよ。 それで小学校でも同級生のお父さんなんか帰って来まして、けれど大虐殺なんてことは誰も言わないんですよね。

参考
大日本帝国陸軍の階級
大将 → 中将 → 少将 → 大佐→ 中佐 → 少佐 → 大尉 → 中尉 → 少尉 →
准尉 → 曹長 →軍曹 → 伍長→ 兵長 → 上等兵 → 一等兵 → 二等兵

私が小学校6年生ぐらいのときにですね、2年生上級生で高等小学校に行った男ですね。太田和夫といってましたが、その彼が遊び仲間を集めて、

「お前たち、もう加賀も赤城も沈んでいるぞ!」って言うんですよ。

びっくりしましてね。赤城、加賀なんていうのはですね、子供のときから日本の代表的な航空母艦として名前はよく知っていたわけです。それがね、まだ勝ち誇っている正月の始め頃にですね、みんなそうだって言うんです。

そんなバカなと思っていましたけども、これは戦後になってわかりましたけど、それはミッドウェー海戦の後だったんです。

参考
ミッドウェー海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日
にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍を
アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部
隊及び同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は主力空母4隻とその
搭載機約290機の全てを一挙に喪失する大損害を被り、アメリカ海軍もヨークタ
ウンを失った。

ところが私は山形県の鶴岡市のしかもはずれですからね、周囲には海軍関係の人は一人もいません。それから中央との関係ある人も、偉い人も一人もいません。にもかかわらず、日本軍の海軍がひた隠しに隠したミッドウェー海戦の敗戦は子供までサーと伝わってくるんですよ。

ところが何万人も南京あたりから帰ってきているわけです。一人もそんなこと言った人いないから、まあ、これはないだろうと思ってね。ちょうど私は家にありました本をですね取り出してきましてね。これはキングという雑誌です。

当時これは100万部売れてたとかいいますが、六百何十ページありますよ。これは昭和13年1月号ですから、南京が落ちてから2週間から3週間目に出た本です。たくさん書いてありそうでしょ。しかし、六百何ページのうちのですね。まあ、1割はないぐらいですね。戦争に関係あること自体が。

それから当時はこの昭和13年1月号の付録にこれが出ているんです。

「支那事変美談武勇談」。これは講談社が作ったんですよ。

だから戦争が始まってから間もなくの間に作ったんでしょうね。話が一杯ありますけど、みんな実名入りでね。兵隊さんの話が多いんです。だから武勇伝ですね。システマティック(組織的)な虐殺なんていうのは入りようがない話ばかりです。これが南京が陥落してから3週間後に出た本ですよ。雑誌ですよ。勝手なこと書ける自由な報道になって、戦争のことが1割ぐらいしかないんですよ。

それからこれはね、子供のための講談社の絵本です。戦前はですね、講談社の絵本っていうのは子供のための絶対的な本って言っていいんですがね。南京が落ちてから3週間目に出た子供のための絵本です。講談社の絵本は当時1月4冊ずつ出ました。雰囲気としてね、30万人殺しているような雰囲気なんてどこにもないんですよ。だから私は初めからそんなことおかしいと思っておったんです。

そう思って考えてみますとね、いろいろ思い起こしてみますとこんなことがありました。南京を攻めるときに日本が空襲するわけです。空襲するっていってもアメリカ軍みたいに何トンもの爆弾をバーンと落とすんじゃなくてですね。狙ってポツポツ落とすわけですが、それが軍事施設から狂って民間の家に落ちた。

支那軍はそんなことをね、いちいちね、当時の南京政府は国際連盟に訴えているんですよ。爆弾がずれて普通の家に落ちただけでも。

なのにですね、虐殺は問題にされてないんですよ。

それで外国人もいたわけです。安全地区なんかにいたわけですが、日本政府が公式なる外国からの抗議を受けたことは一度もないんです。

公式の抗議はありませんよ。

蒋介石からさえもないんですよ。

だから南京大虐殺があったという話をですね、東京裁判に最初に出てきたときに総司令官の松井大将までも、「俺はじめて聞いたよ。」というのは嘘じゃないと思います。当時の日本人は聞いたことがないんですよ。そんなこと。30万人は簡単に殺せる数じゃないですよ。

戦場ではいくら兵隊さんが殺されてもこれは虐殺とは言いません。

戦闘ですから。

それが戦後はごちゃ混ぜになっちゃって、戦闘で殺された相手ね、それから敵は督戦隊というのがありましてね、自分の味方の逃げてくる兵隊を撃つ人がいたんですよ。そんなのを殺したとか。みんなごちゃ混ぜに混ぜましてね、何万人とかいいましてね、それにしても無理なんですね。

参考
督戦隊(とくせんたい)とは、軍隊において、自軍部隊を後方より監視し、自軍
兵士が命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは降伏する様な行動
を採れば攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った部隊のことで
ある。兵士の士気を上げる為の手段であり、司令官が「死守」を命じると兵士
は文字通り死ぬまで戦うことになる。

当時南京は世界中が認めるように20万人でしたね。田中正明先生という人がいました。この人は松井大将の秘書の方で、私が諸君という雑誌か何かにね、今言ったようなことを書いたんですよ。そうしたらお電話いただきましてね。

本当に電話で泣き声で言われたんですね。

「今までそう言ってくれる人が本当にいなかったんだよ。私は松井大将の脇にいたんだ。」

というようなことをおっしゃいまして、その後お会いしてお話をお伺いいたしました。

そうしますと、やはり、あり得るはずがないんですよ。30万人という数は組織的に時間をかけないと絶対殺せないんですよ。

それで松井大将は南京を攻めるときにですね、我々は敵の都を落とすんだ、世界中が見ているからみんな注意しろと言って攻撃しています。

南京のすぐ近くには中山稜(南京を代表する観光名所で、紫金山という標高448mの山の山頂付近にある)という稜があります。そこは孫文なんか祭られております。そこに大砲あげれば大変打ちやすいんですけど、中山稜に大砲あげちゃいかんというような具合で、そこまで気を使って攻撃してるんですよ。

それからオープンシティを勧めていますね。街を戦場にしちゃいかんと、それは市民が巻き込まれるから、実際に北京も天津も全部オープンシティにしているんです。敵側は。だから一人も住民の被害はありません。

本当は蒋介石もオープンシティにするつもりだったんですが、唐生智という将軍がぜひ戦わせてくれというわけでオープンシティにしなかったんですよ。

オープンシティにしなかったら市民に被害があったとしても、それはオープンシティを受け取らなかった、しなかったほうの責任ですよ。

それで最後まで戦わなくて途中で逃げ出しちゃったんですね。というようなことで、オープンシティにしなかった。

オープンシティっていうのは非常に重要なんですよ。例えば、パリっていうのはね。ドイツ軍が占領したときオープンシティにしたからあまり傷つきませんでした。それから連合軍が攻め返した時にドイツの将軍はヒットラーの命令に反して、オープンシティにしました。ヒットラーはパリを焼けと言ったんですよね。しかしドイツの将軍はそんなことするもんじゃないと言って、オープンシティにして引き上げたんですよ。だからパリはそのままですよ。

オープンシティを最後までしなかった、例えばベルリンは市街戦になりますから徹底的にやられるんですよ。それはしょうがない。

参考
オープンシティ(無防備都市宣言)とは組織的降伏の一種。戦争もしくは紛争
において、都市に軍事力が存在していない開放地域(英語: Open City)で
あると宣言し、敵による軍事作戦時の損害を避ける目的で行われる。

それからもうひとつ考えてみますとね、当時の我々の子供の頃の戦争でね。1万人戦争で殺すなんて、想像の外にあるんですよ。ところが何万人も殺すのが平気に感じるようになったのが、非常に新しいんですよ。あれは戦後ヒットラーがユダヤ人を何十万人か何百人を殺した。それからドレスデンの爆撃でアメリカ、イギリスの爆撃隊が十万人殺したとかね。あと日本を無差別爆撃で殺したとか原爆落としたとか、それで何万人も一緒に死ぬんですよ。

そんなことはこの時代、支那事変が初まった頃は世界にないんです。何万人も殺すなんてそんな話ありませんよ。というようなことで私は、とばっちりで亡くなった人はいるだろうけどもね。

そんな人ないと思ったらですね。田中正明さんはね、東京裁判記録でもないみたいですよというんで、私は東京裁判記録だけはみました。そこではマギー牧師という人が証言してるんです。

「初めにたくさん虐殺があったそうです。」

「あったそうです。」

これは噂話ですね。そこでアメリカ人の弁護士が反対尋問したんですよ。

「マギー牧師さんね、あんたはいろいろな虐殺の噂を聞いていますが、あんたは何人みましたか?」

マギーさんは安全地区の一番頭のほうで身分の高い牧師さんで赤十字の代表みたいな仕事もしています。南京のどこでも自由に歩けるんですよ。日本軍は絶対外人には手を出しません。その人が証言してるんですよ。東京裁判で。さすがに牧師さんですから証言台では嘘は言わなかったと思うんですね。

アメリカ人の弁護士の反対尋問で

「あんた何人みましたか?」と訊いたら

「1人です。」

「じゃ、どういう状況ですか?」と訊いたら、

「南京の安全地区に1人の支那人の若い青年が入ろうとした。そしたら日本軍の歩哨が止まれと言った。止まらないで走って行った。それで後ろから撃たれた。」

これは虐殺ではありませんね。戦場で歩哨に止まれと言われて走り出す奴はこれは敵に決まってますから撃たれますよ。

そうしたら、皆さんだって今、ニューヨークの夜ですね、警官に止まれと言われて走って逃げたら撃たれる恐れありますよ。いわんや戦場です。

それから強姦の例はと言ったらね。

「これもたくさん聞きました。」といいましたというけど、

「何人みましたか?」

いくらでも見れるそうですよ。安全地区の一番上ですから。強姦があったとしたら安全地区以外にないわけですから、他のところには戦場ですから普通の人はいませんからね。

「1回です。」

と「それはどういう状況でしたか?」と訊いたら、

「ある部屋に行ったら日本の兵隊と若い女性がいた。」と

「兵隊は私の顔見たらびっくりしてですね。銃剣を忘れて逃げた。」

日本の兵隊さんが銃剣を忘れて逃げるほどね、それは軍律が厳しかったんですよ。そういうことするなという命令が徹底していたからね、そんなこと見つかったら兵隊さん大変だったと思われますね。

「それで私は銃剣持って追いかけて返しましたよ。」って言うんですよ。

考えてみますとそこに女性の兵隊とたまたま女性がいたけれども、それは行為があったかなかったかわからないんです。言ってないんですから。証言ではね。そしてあったとしてもその行為の後なのか前なのかわかりません。後だとしてもお金を払ったかどうかもわかりません。それがたったひとつの例ですよ。

それから「略奪は?」と言ったら、

いろいろ歩いていたらアイスボックス、箱ですね。昔は冷蔵庫や電気がないんです。氷を入れる箱です。

「それを担いで兵隊さんが出てきたのを見ました。」それがひとつだけですよ。

だから南京の安全地区の一番自由に動ける立場にあった代表的な牧師さんが、結局、それしか証言できなかったんです。

というようなこともあってですね、我々は実際とばっちりを受けた市民の数、これはたいした数ではないと思いますが、それは有りうると思いますが、組織的に殺すとかそんなことは有り得なかったってことは言えると思うんです。

虐殺が1人もなかったとはいいません。しかし、組織的な虐殺は有り得なかった。

国際社会も、当時日本は国連から脱退してますから国連は日本を敵視してますよ。にもかかわらず国連も一切取り上げなかったということでそれは組織的なことはなかったと思います。

そして今日本を苦しめている問題が二つあります。一つは従軍慰安婦問題、もう一つは南京大虐殺、大虐殺というのは市民大虐殺であって兵隊さんを戦場で殺すのは関係ないですからね。

この南京大虐殺と従軍慰安婦、二つとも根拠はありません。

それでこの二つが今日本を一番外交的に苦しめている、日本の名誉を落とそうとしている問題です。

みなさん、忘れないでくださいよ。

この二つのインチキの元は朝日新聞です。

というようなわけで私は組織的な虐殺は有り得なかったと断言できると思います。

引用先:「南京大虐殺」の歴史捏造を正す国民大集会

6:15~27:00(20:45)

https://www.youtube.com/watch?v=L_C7KVAfPls&list=LLl9euF_0zrA_5lYl3bCyeJA&index=12&t=1097s

補足:「パル判決書」の真実 著者 渡部昇一 PHP研究所 P213~215 より

南京でトラブルが起こったのは、南京を戦場にしたことが原因なのだ。オープン・シティにすれば、そんなことは起こらない。パリはドイツに占領されるときにオープン・シティにした。そうするとほとんど無血占領になる。これが近代におけるルールのようになっていた。

日本軍は南京にもオープン・シティの勧告をしているのに、中国軍は無視した。他の町ではさすがに懲りて、オープン・シティにしたようだ。だから、上海でさえ残虐な事件の話はない。長沙、衡陽、桂林、柳州などの件についても、パルはいう。

南京入城前の松井石根司令官の言葉も挙げられている。

『皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にして、長く竹帛 に 垂るべき事績たると世界の斉しく注目したる大事件たるに鑑み、正々堂々招来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等絶対になからしむべし』

参考
ちくはく【竹帛】 に 垂(た)る
文字に書きのこす。功名や手柄が書きのせられて後世にまで伝わる。歴史にのこす。

松井はまた、「必要でないときに中立地帯には立ち入らず、主要な地点には歩哨を配置し、外国権益や外交機関には絶対に接近してはならない」「孫文の墓である中山稜や革命志士の墓、明の皇帝の墓には入ってはならない」という指示も出した。

さらに、上海に戻ったのち、アメリカの新聞などが南京の日本軍が不法行為をやっていると報じているのを知り、次の訓令をだしている。

『入城式のときも注意したごとく、日本軍の面目のために断じて左様なことがあってはならぬ。ことに朝香宮が司令官であられるからいっそう軍規風紀を厳重にしもし不心得者があったなら厳重に処断しまた被害者にたいしては賠償または現物返還の措置を請うぜられよ』

したがって、「命令で行われた」残虐行為はありえないということである。

東中野修道氏が非常にうまいことをいっている。

以前、衆議院議員選挙での当選者の学歴詐称が問題になった。そのときに、根本の資料を当たればいいということで、卒業したとされるペパーダイン大学まで行って調べ、大学は卒業証書を」出していなかった。これで「卒業した」「卒業していない」の言い争いは終わりである。

南京事件もいろいろといわれているが、根本の資料まで辿ればいいというのだ。そして東中野氏は、最後は蒋介石の宣伝文に行き当たることを緻密に証明した。また、南京が落ちてから漢口まで200回もの外国人記者団との記者会見をしているのに、蒋介石自身は南京虐殺を口にしたことがないことも明らかになった。